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熊本県大橋町 [大橋城]

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大橋城合戦

大橋城跡から東に位置する高木家の敷地内に小高い丘があり、その藪の中に祠がある。
注目すべきことは、その祠の上に薩摩の印○に+が刻まれていることである。
大橋古城物語にもあるように、大橋家が薩摩と深い関係があったとする伝承と結びつけて考えるべきであろう。
高木家から藪の間には城の名残として深い濠があったという。
しかし、昭和28年の嵐で埋まってしまった。
田底という地名からも明らかなように、この地は盆地のもっとも低いところにあり、洪水の時には水尺を測る所があった。
(『肥後国史』山城村)

また、城の南には六殿神社があった。
六殿神社は、熊本県下益城郡富合町木原の六殿神社が名高いが、
『肥後国史』には東郷二田村に「六殿大明神社」があったと記している。
六殿大明神社 聖武天皇神亀元年に建立。
天照大神・加茂・春日・祇園・松尾・八幡の六柱を祀った。
後醍醐天皇が世を治めた元弘元年、菊池肥後守武光が伊予・土佐の材木を伐採し
「肥後国山本郡総廟六殿大明神造営の神木」
と書き付けて海上に流したところ、この材木が高瀬の浜に流れ着いた。
その後、この材木で修復をした。
 (中略)
加藤清正が高麗へ出陣するにあたり祈願をした故事に則り
文禄元年能や流鏑馬を催した。
しかし、その後、この行事は断絶した。
「六殿」の由来については、菊池武政が先祖の六代を神として祀ったとも云われている。
土地の人々は、阿蘇神社を勧請したと伝えている。
二田村・宮原村・葦原村・山城村・平島村・色出村・大塚村・慈恩寺村・伊知坊村・舟島村、合わせて十ケ村の氏神である。
       
山本郡正院手永 山城村 642石

大橋古城物語[現代語訳]

大橋家には,次の由来が伝わっています。 文治年間に,肥後国山城というところに 大橋左衛門尉貞経(おおはしさえもんのじょうさだつね)という武人がおりました。 先祖は,桓武天皇の皇子葛原親王より十二代の後胤である筑後守家貞の孫の, 肥後守貞能の子でございました。 はじめて肥後の国の代官となって肥後の国へ下ってきて以来, この所に住み,大橋とぞ名のるようになりました。 ところが,貞能の代に平家が没落をしたので、 貞能は舅である尾張国の住人原平太夫高春のところに隠れ住み、 その後,出家をされ剃髪染衣の姿となって、 全国を行脚され, どこで人生を閉じたのかわからないのでございます。 さて貞能の子の貞経は、貞能が鎌倉殿に上落をしたおりに、 鎌倉殿に降参をしたので、 本領の内の三十余ケ所を賜り、御家人の列に加えられました。 貞経が妻は、肥後の国住人である鍋屋庄司のむすめであり、 美しいことで有名でしたので,十三の歳に結婚をされました。 夫婦の間はとても仲がよくかったのですが、 子供は一人も恵まれませんでした。 夫婦ともにこのことを悲しみ, 阿蘇山の観世音に詣でて祈を捧げておりましたが, ほどなく懐妊なさいましたので、 貞経はこの上もなく悦んだということでございます。 このようにすべてがうまくいっていたのですが, いかなる者の讒言でございましょうか, 「貞経が謀反の企てをしている」 と,訴えた人がおりまして, それを聞いた源頼朝どのは激怒いたしました。 それは,文治二年三月四日のことでございます。 頼朝どのは梶原平蔵景時を討手としてさし下し、 大橋城を攻めさせたところ、 もともと謀反の企てなどなかったのですから、戦闘準備は何もしておりません。 しばしの間は防戦をしましたが、 梶原景時の軍勢に簡単に落とされてしまい、 貞経は、とうとう捕縛されてしまいました。 景時は生け捕りにした貞経を鎌倉までつれてゆき, 報告をもうしあげたところ、 頼朝どのが仰せられるには、 「今度は首をはねようと考えている。 いろいろな支度もあるので」 と言って,梶原と土屋に命令して、 貞経を松葉ケ谷の土の牢に入れ, 領地を梶原に与えたのでございます。 貞経の妻は,乳母の縁を頼って薩摩国に落ち行き, 憂いにとんだ年月を送っておりましたところ, 月重なって男子を生んだのでございます。 その子の名前を摩仁王丸と名づけました。 七才になったときに、 薩摩国の大御堂という寺にあずけ、 手習をはじめとして様々な学問をさせたところ, 友人たちの子供たちは摩仁王丸をゆびさして「父なし」と呼んだのでございます。 摩仁王丸は,幼い心に思ったのは, 「確かに人間と生まれた以上は,父あり,母ありである。 なぜ自分は母ばかりいて父はいないのであろうか?」 ということでございました。 そこで,家に立ち返り,母に逢て尋ねたところ, 母は事情を語るのをつらく思いながら, しかし隠すことでもないので, 過去の出来事を丁寧にかたりつつ、 貞経の書いた手紙などを持ってきて、 大橋の家系ならびに文などを見せたところ, 若(摩仁王丸)は,ただ今あったことのように感激し, おおいに悲しんでおりましたが, 何とお思いになったものか, いそいで山寺に立ち帰り、その後は家へもゆかず、法華経を一心不乱に読んでおりましたところ, 一部始終をすっかり暗誦できるまでになったのでございます。 祈ったことは,ただひとつ。 父上に,一度でよいから会いたいと, そして,この世を平和に,死後の極楽往生を,せつに祈ったのでございました。 12歳になったとき,あまりに父親を恋しく思われて, 訪ねていこうと思い立ち, 母親のもとへと立ち返り, 「自分に3年のいとまをください。 鎌倉に下り,敬愛する父上のところに参上し,お供をしようと存じます」 これを聞いた母親はおおいに驚いて, 「それは,かなうはずもない計画だ。 1日や2日の旅ならばともあれ, これほどの遠路を,誰を頼りに父親を訪ねていこうとしているのか? そして,もし,父親のところにたどり着くことができたとしても, 会うことができると決まったわけではありません。 そのうえ,もし大橋家の子供とわかれば, 鎌倉幕府にとっては反逆罪を犯した男の子供ですから, たちどころに捕まえられ, 首を刎ねられてしまうことでしょう。 母は,あなたの父の金吾殿に別れて後、川にも身を沈めようと思い悩みましたが, あなたがいると思うから、こうして生きてきたのです。 そんな危険なことをして,望みが叶うはずもなく, わたくしを悲しませるようなことは, どうか止めてくださいませ」 母の思いは痛いほどよくわかる摩仁王丸ですが, 言葉を返して 「ほかならぬ母上様のおことばではございますが, 父上のゆくえを尋ねるのも, 母上の父上に対する思いを自分なりに考えてのことでございます。 その上、仏の教えにも <孝行はすべての功徳にまさる> とあります。 尊いお経にも、このように書いてございますので, 年齢こそ若くとも, 生きているか死んでいるかわからない父上を尋ねないのであれば, 神や仏も、わたくしのことを親不孝者とお思いになるに違いありません。 ここは,母上のことばではございますが, そこをまげてわたくしにいとまを与えてください」 と、かきくどくようにお願いしたところ, 母は,止めてもとても聞き入れるような状態ではないことを見て取って, 「そこまで考えているのであれば,あなたの心のままにしなさい」 と,ついに旅に出ることを許したのでございました。 摩仁王丸はとても喜んで、僧の形になって出立することにしました。 名前を中将と改め, 乳母子の若松というものを一人だけ従者としてつれて, 長い旅路の果てに鎌倉に下り着きました。 鶴ケ岡八幡宮の宝殿に詣でつつ, 父上に会わせていただきたいとの心中の祈願を神に述べ, そのうえで, 午後8時くらいから翌日の午後6時くらいまで 一心不乱に『法華経』を読誦したのでありました。 (読誦[ドクジュ]は,そらで法華経を尊く読み上げること) その声は、宝殿にひびき渡り、じつに尊く殊勝に聞こえたため, 参詣をしている者たちは、皆,感激の涙を流したのでございました。 この時、頼朝の妻である北条政子様が、ひそかに参詣をされ、 八幡宮の内陣にいらっしゃいました。 法華経を読誦する声を聞き, あまりのすばらしさに感動したため、 その子を呼び出し、試しに法華経の功徳についてあれこれ尋ねてみたところ, その答えはじつに深く明らかであったため, 館に帰った後、頼朝公に、 このように尊いことがございました と,語ったところ, 神仏を尊ぶ頼朝公も不思議にお思いになり, すぐに御所に呼び出して, 法華経のなかで,今まで不審に思っていたところをお尋ねになりました。 もちろん,摩仁王丸は,すべての質問にためらうこともなく明瞭に答えましたから, 頼朝公は大いに感動して,次のようにおっしゃいました。 「この児は、釈迦の弟子の中でも知恵第一といわれた文殊菩薩の再来に違いない。 じつに,知恵といい、容貌といい、これほどすばらしい人間を見たことがない。 いったい,いかなる者の子であるのか? 何ごとであっても望みがあれば,かなえてやろう」 とおっしゃったので, 「わたくしの身の上のことにつきましては,とりたてて望みはございません。 しかし,ただ一つだけお願いがございます」 と申しあげるので, 頼朝,さては何か言いたいことがあるのかとお思いになり, 「いったい,どうしたことか? この児は深く物を思い入りたる様子である。 何を望んでいるのか? この頼朝の力でできることであれば,八幡菩薩も御照覧あれ、望みをかなえてやろう」 とのお言葉をいただいたので, 児は涙をおしとどめ,泣く泣く次のように申し上げたのでございます。 「わたくしの父は, 筑紫の肥後国で暮らしておりました大橋左衛門貞経と申す者でございます。 (頼朝様が)貞経を召し下された時、わたくしはいまだ胎内におりましたため, 父が姿を見たことはございませんが,あまりになつかしく、 ここまで尋ね参った次第でございます。 もし、父がまだ生きているのであれば, 一度、会わせてくださいますようお願い申し上げます」 と、涙ながらにお願いしたのでございます。 頼朝は、このことを聞いて 「さては、あの貞経の子であったのか! 大橋は重罪の者であるとはいえ, 君子たる者,一度約束したことを翻すことはできない」 ということで、左衛門を召し出し、摩仁王丸に賜り 「貞経は叛逆の者であるため、 十二年の長きにわたって土牢に入れて置いたが、 このような不思議の事があったため、命を助けたのである。 とりわけ,おまえを許すのは,次の二つの理由による。 一つは, 法華経の功徳は舌筆に尽くしがたいほどに尊く, その法華経の教えに則り許すことにしたのである。 一つは、 親に対する子供の孝行に感心して,許すことにした。 さらに,これからのこともあるので, 所領をあたえよう」 と言って,左衛門親子に肥後国半国を下賜したのでありました。 それから,頼朝の前から辞去した親子は,大いに喜び, 母親の待っている肥後国へと戻り,末永く幸せに暮らしたのでございます。 大橋左衛門通貞と言うのは、この摩仁王丸の事でございます。 以上は,大橋家伝に伝えられているものでございます。 この貴重な記録が失われることを心配して,ここに書き写した次第です。 時に,文政四年十二月八日 (肥後、古記集覧より)


大橋古城物語[本文]

【注:スキャナーから読み込んだため,誤字があります。近日中に訂正します。】 大橋家伝に云う。 文治年中に肥後の国、山城と云う所に大橋左衛門尉貞経という人有り。 先祖は桓武天皇の皇子葛原親王より十二代の後胤、筑後守家貞の孫にして、肥後守貞能の子なり。 はじめて肥後の国の代官と成て下向し、此所に住しより、大橋とぞ名乗りける。 貞能が代に平家没落せしかば、貞能は舅尾張国住人原平太夫高春が方にかくれ居て、 後には剃髪染衣の姿となり、終わる所知れざりけり。 貞能が子、貞経は、貞能上落の砌、鎌倉殿に降参しければ、 本領の内、三拾余ケ所を賜り、御家人の列に加え給う。 貞経が妻は、肥後の国住人、鍋屋庄司がむすめにて、美女のきこえ有しかば、十三の歳むかえとり、 年頃相馴しかども、子一人もなかりしかば、夫婦ともに是を悲しみ、 阿蘇山の観世音にもうでて祈りけるに、程なくただならぬ身となりければ、 貞経が悦び斜ならずとぞきこえける。 かかる所に、いかなる者の讒言にや、 貞経謀反の企ありと訴えければ、源頼朝、御憤り浅からず。 文治二年三月四日、梶原平蔵景時を討手として指下し、大橋城を攻めさせられけるに、 もとより無実なければ、何の用意もなし。 しばし防ぎ戦いけれ共、やすやすとせめ落とされて、貞経は、ついにからめとられけり。 景時、生捕を引具して鎌倉に赴きかくと申し上げしかば、 頼朝仰せける様は、 今首をはねむとも思う、子細有れば とて、梶原土屋に仰せて、松葉ケ谷の土の牢に入れられ貞経が領地をば梶原に給りける。 貞経が妻は乳母が、ゆかり有て、薩摩国に落ち行き、うき年月を送りけるに、 月重なりて男子をもうけり。 摩仁王丸と名つけ、すでに七才になりければ、同国大御堂と云う寺につかわし、 手習、学問させけるに、ともなる児ども摩仁王丸を、ゆびさして父なしとぞ呼にける。 摩仁王丸、幼な心に思ひけるは、 げにも人には父あり、母あり、なぜわれは母ばかりありて父とては、なきやらん とふしぎに思い、やがて立ち帰り、母に逢て尋ねしかば、 母は間につらさの、ましながら、かくすべき事ならねば、 過ごし方の有ましを懇にかたりつつ、貞経が書、持ち、大橋の家系並ならびに文とも取出し見せければ、 若は、只今有つることのようにふし、まろひてぞなきけるが、何とか思いけん、 いそぎ山寺に立ち帰り、家へもゆかず、法華経をよみしかば、一部始終をそらんじけり、 ただ祈る事とては、父を一度、相見たきと、現世安穏、後世善所とばかり、かきくどきてぞ願いける。 十二才になれる頃、余りに父の恋しさに尋ね見ばやと思い立ち、 母がもとへ立帰り、哀れ願わくば某に三年の暇をたまい給え。 鎌倉に下りつつ恋しき父に参り合い、御供申し下らんという。 母は大きに驚きて、それこそ叶うまじき事なれ。 一日、二日の旅路ならぬに、だれをたよりに尋ぬべき。たとえ尋ね行きたりとも、会わん事は不定なり。 その上、大橋某が子と知れば、忽ち命を失ふべし。 みずから、金吾殿にわかれし後、渕にも身を沈めんと思いしかど、 若殿に心を慰て、かいなき命ながらえて有しに、思いよらざる事どもや、叶うまじとありければ、 摩仁王丸また押返して「仰には侍れ共、父の行方を尋ねるも、母 の御思いをやめんがために候ぞや、其の上、仏も孝行は万の功徳にまさるとやらん。 経にも、とかせ給ふなれ、年こそ幼く候とも、死生もいまだ定らぬ父を尋ね奉らすは、 神明仏陀も、にくしとおぼしたるべし。 まげて暇を、あたえ給え」と、かきくどきて云ければ、 とむるも叶まじき鉢を見て「其の儀ならば、心にまかせよ」 と許しけるに、摩仁王丸大いに喜んで、僧の形に出立、中将と名をあらため、 乳母子の若松と云うもの一人を召具して鎌倉に下り着き、 鶴ケ岡八幡宮の宝殿に詣でつつ心中の祈願を相のべ、戌の時より申の終りまで法華経をぞ読みにける。 其の声、宝殿にひびき渡りて、よに殊勝にぞ聞えける。 参詣の輩は、皆感涙を流しけり。 此の時、頼朝の御台所、ひそかに参詣ましまして、内陣におわせしが、 あまりに殊勝に思しければ、彼の児を召出し、御心見に、法華経の功徳を問せ給ふに、 其の答え、明かなりければ、御帰館の後、頼朝公に、かくと語らせ給えば、 頼朝公も不思議に思召、やがて御所に召出され、法華経の内にて御不審の条々を問わせ給うに、 悉く即座に訓訳したりける。頼朝公大御感有て、仰せられるに 「此児は、文殊菩薩の再来にや、知恵と云い、容貌と云い、類すくなく覚えたり、 いかなる者の子なるぞや。何にても望あらば叶えし」 と云ければ 「我が身、別に望とても候わず。只一つの願い候」 と申して、聞き居たり。 頼朝、あやしく思召 「何様、此児は深く物を思い入りたるけしきなり、何事の望ぞや。 頼朝が身に及ぶ事ならば、八幡も御照覧あれ、叶ふべし」 とありければ、児は涙をおしとどめ泣く泣く申しけるは 「某、父は筑紫、肥後国にて、大橋左衛門貞経と申者にて候。 貞経を召下されし時、某はいまだ胎内に居候へば、 父が姿を見ず候得ども、余りなつかしく、是まで尋ね参りたり。 もし、ながらえて候わば、一度、御あわせたひ給え」 と、ふしまろびてぞ涙居たる。 頼朝、此の由、聞こし召し 「さては、貞経が子にて有けるよな。大橋は重罪の者なりといえども、君子二言なし」 とて、左衛門を召し出し、摩仁王丸に賜り 「貞経叛逆の者なれば、十二年土牢に入れ置きしに、かかる不思議の事に依て、命を助けたり。 法華経の功徳、言に述べ難ければ一つは、妙典に対し奉り、 一つは、児が孝行を感して、所領をあたえん」 とて、左衛門親子に肥後国半国を賜り御いとま給わりければ、 若は大きに喜び、父と共に国に下り、母に逢い、行末ながく栄えたり。 大橋左衛門通貞と言いけるは、此の摩仁王丸の事なりけり。 右、大橋家伝出干錦嚢移文、今村井武あき謄写て伝予也、予列千帖中て備干後日遺志畢。 干時文政四年十二月八日 真磨 (肥後、古記集覧より) [郷土史家、勇知之先生提供]



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