コード ケン マチ   メイ 関係カンケイ事項ジコウ 登場トウジョウ人物ジンブツ ウチ             カタチ
1001 熊本クマモト 天草アマクサ 有明町アリアケチョウ タイ   タイ重盛シゲモリ 源平ゲンペイ合戦ガッセンヤブれたタイ重盛シゲモリシタウラにきた。その,ギオンヤマカクれた。そこを,「タイ」とぶようになった。
1002 熊本クマモト 天草アマクサ リュウダケマチ 大道オオミチ 瀬戸セト 平家落人 ダンウラ合戦ガッセンヤブれた平家ヘイケグンは,九州キュウシュウ四散シサン
一部イチブは,天草アマクサ上島ウエシマシタシマ東海岸ヒガシカイガンヒソめた。
1003 熊本クマモト 天草アマクサ リュウダケマチ 大道オオミチ アカサキウラ 平家落人 源氏ゲンジガタは,天草アマクサノガれた平氏ヘイシ掃討ソウトウタタカいがハジめた。平氏ヘイシ海戦カイセンイドんだ。源氏ゲンジは,リクカイ二手フタテからせる。第二ダイニダンウラタタカいも源氏方ゲンジガタ勝利ショウリとなった。瀬戸セト平氏ヘイシ死体シタイフサがり,源氏ゲンジグンうことができなかった。
1004 熊本クマモト 天草アマクサ リュウダケマチ 横島ヨコシマ   平家落人 赤崎アカサキウラタタカいでヤブれた平氏ヘイシ武将ブショウたちは横島ヨコシマ上陸ジョウリクし,そこにんだ。イシホコラノコっている。
1005 熊本クマモト 天草アマクサ リュウダケマチ 大道オオミチ 瀬戸セト 平家落人 アメにはアヤアラワれる。これは,アカサキウラタタカいでんだ平氏ヘイシ亡霊ボウレイである。
1006 熊本クマモト 天草アマクサ リュウダケマチ 大道オオミチ 瀬戸セト 平家落人 瀬戸セトを,「フサぎの瀬戸セト」とぶ。そのいわれは,ここで源氏ゲンジ平氏ヘイシとがタタカい,死亡シボウした平氏ヘイシグン死体シタイによって瀬戸セトフサがったからである。
1007 熊本クマモト 天草アマクサ リュウダケマチ 大道オオミチ クラダケイワ 平家落人 天草アマクサ第一ダイイチ高峰コウホウクラダケ巨大キョダイ岩石ガンセキがあり,その北面ホクメンは3ジョウほどのになっていて巨石キョセキ屋根ヤネのようにカブさっている。ここは,平家ヘイケカクんだトコロであり,ショアトわれる。
1008 熊本クマモト 天草アマクサ リュウダケマチ 大道オオミチ アカサキ 大将タイショウ フサぎの瀬戸セト」のタタカいでにした平氏ヘイシ大将タイショウハカが,赤崎アカサキ東側ヒガシガワ山中サンチュウにある。「とんのハカ」とばれている。「とん」は「殿ドノ」である。
1009 熊本クマモト 天草アマクサ リュウダケマチ 大道オオミチ 松ヶ鼻マツガハナ マツヒメ 平家落人が芦北アシキタから天草アマクサトウびるとき,マツヒメという身分ミブンタカ武将ブショウヒメ同行ドウコウしていた。フネ大道ダイドウ南方ミナミガタたときついに息絶イキタえたので,ミサキ遺体イタイをおろした。それ以来イライ,そのミサキを「松ヶ鼻マツガハナ」とぶようになった。
1010 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 御所浦町ゴショウラマチ アラシグチ 梅戸ウメド マツヒメ マツヒメ源氏ゲンジ多田タダ蔵人クロウドツナムスメであり,絶世ゼッセイ美人ビジンであった。薩摩サツマ名護ナゴから天草アマクサまでノガれてきた。フナイクサとなり,チチツナとともに
1011 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 御所浦町ゴショウラマチ アラシグチ 梅戸ウメド マツヒメ 黒田家の先祖が梅戸の山に入ったとき,渚の方で声がする。行ってみると,戸板の上に美人の首が乗っていた。鈴虫スズムシのようなコエウタいだした。そこでホコラててマツった。
1012 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 御所浦町ゴショウラマチ アラシグチ 御所ゴショウラシマ 俊寛シュンカンなど 鹿シカタニヘンにより,藤原フジワラオヤ俊寛シュンカンタイヤスタノオニカイシマ硫黄イオウトウ)にナガした。しかし,実際ジッサイナガされたのは御所浦ゴショウラシマであった。
1013 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 御所浦町ゴショウラマチ アラシグチ 瀬戸セト目崎メサキ ミナモトツナ 鹿シカタニヘン密告ミッコクにより平氏ヘイシせたミナモトツナは,平氏ヘイシ残党ザントウとともに天草アマクサ御所ゴショウラノガれた。瀬戸セト目崎メサキツナハカノコる。
1014 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 御所浦町ゴショウラマチ アラシグチ 瀬戸セト目崎メサキ ミナモトツナツマ ミナモトツナツマは,フサぎの瀬戸セト赤崎アカサキフナイクサウミシズんだ。西ニシサキナガいて,ナギサヨコたわっていた。そこにてて「若宮ワカミヤサマ」とづけウヤマった。
1015 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 御所浦町ゴショウラマチ ヨコシマ 弁慶ベンケイヤマ 弁慶ベンケイ 弁慶ベンケイヤマは,弁慶ベンケイがこのシマんだことに由来ユライする。
1016 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 御所浦町ゴショウラマチ 牧島マキシマ 長浦ナガウラ 義経ヨシツネ 義経ヨシツネ牧島マキシマ長浦ナガウラフネカクしていたので,そこを「フネカクし」という。
1017 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 御所浦町ゴショウラマチ 横浦ヨコウラシマ 与一ヨイチウラ 那須ナス与一ヨイチ 牧島マキシマ那須ナス与一ヨイチがやってきたので,東側ヒガシガワを「与一ヨイチウラ」とづけた。
1018 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 御所浦町ゴショウラマチ 牧島マキシマ 頼朝ヨリトモ ミナモト頼朝ヨリトモ 与一ヨイチウラ」から「横浦ヨコウラ」へえるトウゲミチを「頼朝ヨリトモえ」という。
1019 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 御所浦町ゴショウラマチ 牧島マキシマ 弁慶ベンケイヤマ 弁慶ベンケイ 弁慶ベンケイヤマ頂上チョウジョウには,9ニン平家ヘイケ落人オチウドハカがある。
1020 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 御所浦町ゴショウラマチ 牧島マキシマ 長浦ナガウラ 平家ヘイケ落人オチウド 長浦ナガウラの「フナカクし」は,平家落人がカクんだところである。
1021 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 御所浦町ゴショウラマチ 牧島マキシマ 長浦ナガウラ 平家ヘイケ落人オチウド 平家落人は,ヤマウエ見張ミハりをいた。その場所バショを,「二度ニドウラ」とんでいる。
1022 熊本クマモト 天草郡アマクサグン クラダケマチ 宮田ミヤタ 境目サカイメ古墳コフン 安徳アントク天皇テンノウ 境目サカイメ国道コクドウヨコオカに「鬼塚オニヅカ」がある。これは,平家ヘイケ落人オチウドハカである。安徳アントク天皇テンノウハカともいわれている。
1023 熊本クマモト 天草郡アマクサグン クラダケマチ 宮田ミヤタ 木津キヅハラ 源義経ミナモトノヨシツネ 源義経ミナモトノヨシツネは,頼朝ヨリトモ勘気カンキにふれて追討ツイトウされ,天草アマクサトウ宮田ミヤタムラノガれてきた。
1024 熊本クマモト 天草郡アマクサグン クラダケマチ 宮田ミヤタ 木津キヅハラ 源義経ミナモトノヨシツネ ミナモト義経ヨシツネは,3ニン子供コドモんだ。木津キヅハラ大宮オオミヤ西ニシハラにわけてんだのが宮田ミヤタハジまりである。
1025 熊本クマモト 天草郡アマクサグン クラダケマチ 宮田ミヤタ 木津キヅハラ 源義経ミナモトノヨシツネ 大宮田オオミヤタ中村ナカムライエには,弁慶ベンケイ文書ブンショホンがある。
1026 熊本クマモト 天草郡アマクサグン クラダケマチ 宮田ミヤタ 木津キヅハラ 弁慶ベンケイ 弁慶ベンケイんでいたところから,金塊キンカイた。
1027 熊本クマモト 天草郡アマクサグン クラダケマチ 宮田ミヤタ 木津キヅハラ 弁慶ベンケイ 十五15シャミヤ弁慶ベンケイ再建サイケン
1028 熊本クマモト 天草郡アマクサグン クラダケマチ 宮田ミヤタ 木津キヅハラ 弁慶ベンケイ 代々ダイダイ庄屋ショウヤをつとめた中村ナカムライエは,弁慶ベンケイ末裔マツエイである。
1029 熊本クマモト 天草郡アマクサグン クラダケマチ タナゾコ けさがウラ おけさ 平家落人のムスメおけさは,タコをつけ毎日マイニチホンずつカマってべていた。最後サイゴ一本イッポンカマっていかなかった。たこは,おけさをウミんだ。おけさのは,毎日マイニチハハシタっていていた。
1030 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 栖本町スモトマチ 山浦ヤマウラ リュウクチ 佐藤サトウシン リュウクチ佐藤サトウは,平家ヘイケ落人オチウド佐藤サトウシン佐藤サトウ経信ケイシン佐藤サトウ唯信タダノブ末裔マツエイである。ムカシは,乗馬用ジョウバヨウウマ,さらにカタナヤリっていた。
1031 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 栖本町スモトマチ   ハマ集落シュウラク 平家落人 ハマ集落シュウラク突端トッタンを「ドブネ」という。ここには,平家ヘイケ落人オチウドハカが3〜4ハタケナカノコっている。
1032 熊本クマモト 本渡市ホンドシ 下浦シモウラチョウ モリミサキ モリ古墳コフン ミナモトツナ 石碑セキヒホトケガミサマ」のたっているとこは,ミナモトツナ居住キョジュウアトである。ツナは,平氏ヘイシ敗退ハイタイにより,このノガれてきた。
1033 熊本クマモト 本渡市ホンドシ 下浦シモウラチョウ   シキジマ ミナモトツナ 源行綱がノガれてきたシマ
1034 熊本クマモト 本渡市ホンドシ クスウラマチ 下浦シモウラ ツカシマ ミナモトツナ 源行モトユキ綱が,シキジマからノガれてきた。源氏ゲンジタタカったが,部下ブカオオくはをした。そのため,ツカシマぶようになった。
1035 熊本クマモト 本渡市ホンドシ 下浦シモウラチョウ モリミサキ モリ古墳コフン ミナモトツナムスメ ミナモトツナムスメツマ?)のマツヒメとともにこのノガれてきて,カクんだ。9ガツ20祭礼サイレイオコナう。
1036 熊本クマモト 本渡市ホンドシ 下浦シモウラチョウ モリミサキ モリ古墳コフン ミナモトツナ 源行綱由来ユライケンヤリとが発掘ハックツされた。ケン行方ユクエ不明フメイになった。ヤリは,青年セイネン管理カンリ
1037 熊本クマモト 本渡市ホンドシ 下浦シモウラチョウ モリミサキ モリ古墳コフン ミナモトツナ 源行綱由来ユライツボ発掘ハックツされた。古墳コフンマモっていた石井イシイツマウミアラったところ,ウミイロわった。
1038 熊本クマモト 本渡市ホンドシ 下浦シモウラチョウ   平家ヘイケ 平家ヘイケ落人オチウド 源平ゲンペイ合戦ガッセンヤブれた平家ヘイケ落人オチウドが,フネをつけたところ。カクれていた。源氏ゲンジは,天草アマクサまでサガしにきた。
1039 熊本クマモト 本渡市ホンドシ クスノキウラマチ カタハラ カタハラカワ 浦上ウラガミキヨヘイ カタハラカワマツリフチ上流ジョウリュウを開拓をしたのは,浦上氏である。イマも,他氏タシとはチガった祭礼サイレイイトナんでいる。
1040 熊本クマモト 本渡市ホンドシ 宮地ミヤジダケ 長迫ナガサコ カタハラカワ やんぼしさん やんぼしさん(平家ヘイケ落人オチウド)が祈祷キトウをしたりエキたりして村人ムラビトから感謝カンシャされていた。あるとき,帽子ボウシダケフモトコロされているのがつかった。村人ムラビトは,若宮ワカミヤとしてマツった。キュウガツ28命日メイニチである。
1041 熊本クマモト 本渡市ホンドシ クスウラマチ カタハラ カタハラカワ 浦上ウラガミキヨ兵衛ヒョウエ 平家ヘイケ落人オチウド浦上ウラガミキヨヘイカタハラガワサカノボり,このヒラいた。キヨヘイハカは,イマノコっている。
1042 熊本クマモト 本渡市ホンドシ クスウラマチ カタハラ カタハラカワ 浦上ウラガミキヨ兵衛ヒョウエ 開祖カイソキヨヘイは「きりあけどん」とばれている。カタハラの「マツリフチ」までくるとタキフチ大蛇ダイジャがいて,トオることができない。そこで,子々孫々シシソンソンアキれのにしとぎと甘酒アマザケソナえることを約束ヤクソクしてトオしてもらった。
1043 熊本クマモト 本渡市ホンドシ   カタハラ カタハラカワ 浦上ウラガミキヨ兵衛ヒョウエ 「きりあけどん」のイエは,現在ゲンザイ浦上ウラガミタイさんのところである。
1044 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 苓北レイホクチョウ 木場キバ ミヤコカワ 平家ヘイケ落人オチウド 木場キバタケミヤコカワのほとりに,フルぼけたツカがある。これは,平家ヘイケ落人オチウドがここまでナガれてきてなくなってきたためにキズいたものである。
1045 熊本クマモト 天草郡アマクサグン 苓北町レイホクマチ 富岡トミオカ 鳥越トリゴエ 弁慶ベンケイ 鳥越トリゴエハタケナカ巨石キョセキがある。このイシのくぼみは,弁慶ベンケイ手形テガタである。弁慶ベンケイ富岡トミオカたときに,関取セキトリ力比チカラクラべをした。関取セキトリげることができなかったが,弁慶ベンケイ右手ミギテ軽々カルガルげた。そのときのアトである。
1046 熊本クマモト 牛深市ウシブカシ ウオツラヌマチ フク 里浦サトウラワン 山口ヤマグチ五郎ゴロウヒダリモン 平家ヘイケ落人オチウド里浦サトウラワンノガれてきて,「カク」に上陸ジョウリク。そこからフクいた。先祖センゾ名前ナマエは,山口ヤマグチ五郎ゴロウヒダリモンという。平家ヘイケブシ多数タスウ同行ドウコウしていた。
1047 熊本クマモト 牛深市ウシブカシ ウオツラヌマチ   里浦サトウラワン 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドカクんだため,里浦サトウラワンを「カク」とんでいる。この付近フキンからは,フルカタナカブト発掘ハックツされたことがある。
1048 熊本クマモト 牛深市ウシブカシ ウオツラヌマチ   ナカウラ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドフネカクしたところである。
1049 熊本クマモト 牛深市ウシブカシ フカウミマチ 下平シモヒラ スガ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドが,芦北アシキタからノガれてきた。そこを,イマでは「屋敷ヤシキのくぼ」とんでいる。
1050 熊本クマモト 牛深市ウシブカシ フカウミマチ 下平シモヒラ ハシラダケ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドがこのヤマナカんだが,悪者ワルモノのために下平シモヒラいやられた。落人オチウドたちは,「ドウ」にカクれた。そこで,このを「水道スイドウ」(みど)とぶようになった。
1051 熊本クマモト 牛深市ウシブカシ フカウミマチ 下平シモヒラ   平家ヘイケ落人オチウド 水道スイドウ」にいつめられた平家ヘイケ落人オチウドは,いつめられて下平シモヒラテラカクれた。そのを,「テラセマ」とぶ。
1052 熊本クマモト 牛深市ウシブカシ フカウミマチ 下平シモヒラ   平家ヘイケ落人オチウド 落人オチウド一族イチゾクは,下平シモヒラから鹿児島県カゴシマケン長島ナガシマへ,ツルギててオヨいでげていった。ケンてたところを「ツルギサキ」という。
1053 熊本クマモト 牛深市ウシブカシ 河浦カワウラマチ 宮野ミヤノ 河内カワチ 三宅ミヤケイエ 平家ヘイケ落人オチウドウミワタっていた。そのとき,フネ座礁ザショウした。「つがね」の大群タイグンアラワれ,あわでフネかせてくれたのでナンノガれることができた。それ以来イライ三宅ミヤケ人間ニンゲンは「つがね」をべない。
1054 熊本クマモト 牛深市ウシブカシ 牛深ウシブカマチ 宮崎ミヤザキ ナミダガワ 弁慶ベンケイ 弁慶ベンケイ牛若丸ウシワカマルヤブ牛草ウシクサ辿タドいた。宮崎ミヤザキイワウエクヤナミダナガした。そのナミダカワになったので「ナミダガワ」とばれるようになった。このミズむと,子供コドモ病気ビョウキカカらない。
1055 熊本クマモト 牛深市ウシブカシ 牛深ウシブカマチ 宮崎ミヤザキ ナミダガワ 弁慶ベンケイ ナミダガワ源流ゲンリュウにある岩の上には,弁慶の足跡と金玉の型が残っていた。
1056 熊本クマモト 牛深市ウシブカシ ウラマチ ヒツジカクワン カメウラワン 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドカクんでいた。源氏ゲンジってきたため,四角シカクハコタカラれて海底カイテイシズんだ。イシのそばによると,不思議フシギサカナってきて,ハコけることができない。
1057 熊本クマモト 牛深市ウシブカシ 牛深町ウシブカマチ 大島オオシマ 厳島イツクシマ神社ジンジャ 矢田ヤダキチヒダリモン 平家ヘイケ落人オチウド矢田ヤダキチヒダリモンツマのチヨがいたのがハジまり。氏神ウジガミは,厳島イツクシマ神社ジンジャ
1058 熊本クマモト 宇土郡ウトグン グンウラ マキヤマ マキ大明神ダイミョウジンシャ イケツキ 佐々木ササキタカツナ頼朝ヨリトモからタマワった名馬メイバイケツキは,牧山マキヤマソダったウマである。
1059 熊本クマモト ウエ益城マシキグン 御船町ミフネマチ 横野ヨコノ 玉虫タマムシ御前ゴゼンハカ 玉虫タマムシ タイオモ肥後ヒゴクニ知行チギョウしているときに,横野ヨコノオオタルキというモノムスメ玉虫タマムシ六波羅ロクハラされた。西海サイカイにて義経ヨシツネわれたとき船の上から那須与一に扇を射るよう手招きした。玉虫タマムシは,そのふるさとにカエり,アマとなって平家ヘイケ一族イチゾク菩提ボダイトムラった。玉虫タマムシマツホコラがある。
1060 熊本クマモト ウエ益城マシキグン 御船町ミフネマチ 7タキ 7タキ神社ジンジャ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドマツる。
1061 熊本クマモト ウエ益城マシキグン キタ上野ウエノムラ   7タキ 平家ヘイケ官女カンジョ タキタカさ,三十30ケンハバ六十60ケンフカ34ケン平家ヘイケ没落ボツラクトキ一族イチゾク官女カンジョ7ニンがこのタキシズめ,7ヒキヘビした。紅色ベニイロハナやかなコロモカゲ水面ミナモウツると,たちまちクモ天候テンコウれるといわれていた。
1062 熊本クマモト ウエ益城マシキグン 菅村スガムラ   オンカガミタイヤシロ タイオモ 寿永ジュエイ年中ネンチュウ平家ヘイケ没落ボツラクトキtオモ大山オオヤマカクれ,寿永ジュエイ年中ネンチュウ安徳アントク天皇テンノウ入水ジュスイしてノチ,このカクんだ。このヤシロは,ヤカタアトである。江戸エド時代ジダイまでは,オモもあった。
1063 熊本クマモト ウエ益城マシキグン 矢部町ヤベマチ 大矢野原オオヤノハラ 小松コマツトウ tオモ 里岩に高さ0.6mの塔が立っている。この塔は、「小松の塔」と呼ばれる。文治元年(1185)頃に壇ノ浦で敗れた平家の一門がここを落ちのびていくときに、幼い姫が死んだので葬った跡という。その姫君は、平重盛の娘であった。
1064 熊本クマモト ウエ益城マシキグン キヨムラ 緑川ミドリカワ ワシミネテラ 安徳アントク天皇テンノウ 小塚山中に安徳天皇御陵と伝えられる御陵がある。石垣をめぐらした側に大きな檜ヒノキが聳え、これが陵標だと伝えられている。この陵墓の南側に天皇の菩提寺であった鷲峰寺跡があり、現在の地名はその名にちなんだものとなっている。
1065 熊本クマモト 宇土市ウトシ 立岡タテオカマチ   安徳アントク天皇テンノウ陵墓リョウボ 安徳アントク天皇テンノウ 宮内庁クナイチョウ管轄カンカツ安徳アントク天皇テンノウ陵墓リョウボがある。
1066 熊本クマモト 宇土市ウトシ 立岡タテオカマチ   タイ資盛トシモリハカ タイ資盛トシモリ タイ資盛トシモリ墳墓フンボがあった。ツツミイケカタワらからされた石棺セキカンに「イリ資盛トシモリ」の4キザまれていた。
1067 熊本クマモト 宇土市ウトシ 立岡タテオカマチ   乳母ウバハカ 乳母ウバ 乳母ウバハカ」があったが,道路ドウロ補修ホシュウ工事コウジ消滅ショウメツした。
1068 熊本クマモト 荒尾市アラオシ カバ ニワテラ   タイ重盛シゲモリ ニワテラは,保元ホウゲン元年ガンネン(1156)に小松コマツナイタイ重盛シゲモリによって天台宗テンダイシュウ比叡山ヒエイザン末寺マツジとして建立コンリュウ往時オウジには,四十四44ボウカゾえた。
1069 熊本クマモト 玉名郡タマナグン 三加和町ミカワマチ 野田ノダ   平家ヘイケ落人オチウド 源平ゲンペイタタカいにヤブれた平家ヘイケ落人オチウド平野ヒラノヤマサダハヤシテラてた。平野ヒラノ佐久サク(ひらのさくすけ)のハカノコっている。
1070 熊本クマモト 玉名郡タマナグン 三加和町ミカワマチ 岩村イワムラ 岩村イワムラ阿蘇アソ神社ジンジャ 荒巻アラマキオオゼン タイサダノウ家臣カシン荒巻アラマキオオゼン寿永ジュエイネン11ガツ(1183)に,岩村イワムラ阿蘇アソ神社ジンジャ勧請カンジョウ岩村イワムラには,菊池キクチタカチョク再興サイコウしたゴウ阿蘇アソ神社ジンジャがたっており,ムラフタつの阿蘇アソ神社ジンジャという異例イレイ形式ケイシキになっている。菊池ガワ平家ヘイケ伝承デンショウとして注目チュウモクすべきか?
1071 熊本クマモト 玉名郡タマナグン 三加和町ミカワマチ 岩村イワムラ 松尾マツオ大明神ダイミョウジン 荒巻アラマキオオゼン タイサダノウ家臣カシン荒巻アラマキオオゼンによって勧請カンジョウされた松尾マツオダイ明神ミョウジン勧請カンジョウされている。カワヘダてて岩村イワムラ阿蘇アソ神社ジンジャがたっている。
1072 熊本クマモト 玉名郡タマナグン 三加和町ミカワマチ 岩村イワムラ 宝塔ホウトウ タイアサシン景秋カゲアキ タイアサシン景秋カゲアキによって,中世チュウセイ末期マッキ平家ヘイケ由来ユライ宝塔ホウトウ建立コンリュウされた。「殿様トノサマハカ」もたっている(中世チュウセイマツ?)
1073 熊本クマモト 玉名郡タマナグン 三加和町ミカワマチ イタクス ウエイタクス神社ジンジャ 梶原カジハラカゲルスエ 文治ブンジネン(1189)岡原オカハラシロシュ梶原カジハラカゲルスエキザまれた碑文ヒブンがたっている。梶原カジハラ景時カゲトキカゲルスエは,板楠イタクス一族イチゾクである。
1074 熊本クマモト 玉名郡タマナグン 三加和町ミカワマチ 豊前ブゼン街道カイドウ 腹切ハラキサカ 平家ヘイケ落人オチウド このサカまでびてきた平家ヘイケ落人オチウドが,ここでチカラつきてハラっててたことから「腹切ハラキサカ」とばれるようになった。
1075 熊本クマモト 玉名郡タマナグン 三加和町ミカワマチ 10マチカワ 平家ヘイケフチ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドがこのフチトウじてんだ。以来イライ,このフチを「平家ヘイケフチ」とぶようになった。
1076 熊本クマモト 玉名郡タマナグン 菊水町キクスイマチ 久井ヒサイハラ   平家ヘイケ落人オチウド 深草フカクサ一族イチゾクは,平家ヘイケナガれをくむ。深草フカクサ義方ヨシカタ久井原ヒサイバルふかくさ物語モノガタリ』1979ネン9ガツ深草フカクサ義方ヨシカタ全国ゼンコク深草フカクサ同族ドウゾク会報カイホウ』1984ネン1ガツ
1077 熊本クマモト 鹿本郡カモトグン 鹿央町カオウマチ 千田センダ 聖母セイボ八幡宮ハチマングウ トラ御前ゴゼン トラ御前ゴゼン遺髪イハツオサめる宝篋印塔がある。
1078 熊本クマモト 鹿本郡カモトグン 鹿本町カモトマチ タミ tオモハカ tオモ 御宇田ミウタの実際寺ジッサイジに、法筺印塔ホウキョウイントウがある。昔、平家滅亡後に平貞能がこの地に勢力を持っていた御宇田氏を頼ってきたときに、この塔を建てて菩提を弔ったという。また、重盛の家来の大橋三左衛門がひそかに重盛の遺骨を埋めて、墓を建てたとも伝えられている。
1079 熊本クマモト 球磨郡クマグン 五木村イツキムラ     平家ヘイケ落人オチウド 33ケン旦那ダンナシュウによって構成コウセイされる。旦那ダンナシュウ名前ナマエは,土肥ドヒ黒木クロキ土屋ツチヤ田山タヤマ梶原カジハラ緒方オガタなどでる。梶原カジハラ和田ワダ土肥ドヒは,源氏ゲンジ一族イチゾク名前ナマエとされる。梶原カジハラ伝説デンセツは,熊本県クマモトケン三加和町ミカワマチにもある。
1080 熊本クマモト 八代郡ヤツシログン 泉村イズミムラ イエショウ   平家ヘイケ落人オチウド ヒサレンシイハラ仁田ニッタモミ部落ブラクによって構成コウセイされる。仁多ニタモミは,菅原スガワラ道真ミチザネ後裔コウエイとされる。道真ミチザネ後裔コウエイは,ヒダリ(ぞうざ)を名乗ナノってき,欄間ランマには菅原スガワラ家紋カモンウメハチってある。
1081 熊本クマモト 八代郡ヤツシログン 泉村イズミムラ イエショウ   平家ヘイケ落人オチウド 茶臼山チャウスヤマフモトシイハラには,旦那ダンナシュウ緒方オガタんでいる。旦那ダンナシタには,御隠居ゴインキョ百姓ヒャクショウアタマ年寄トシヨというムラ三役サンヤクがあった。旦那ダンナイエは,玄関ゲンカンきの書院造ショインヅクりであった。
1082 熊本クマモト 八代郡ヤツシログン 泉村イズミムラ イエショウ   平家ヘイケ落人オチウド 緒方オガタは,タイキヨ経の子孫である。豊前の柳浦で入水というのは実はウソであって,実は豊後に隠れ,緒方左馬助実国に頼り,その娘を妻として緒方一郎清国と称した。建長2年(1250)3月13日に,曾孫の紀四郎盛幸・三郎近盛・兵部実明の3人は源氏の捜索を避け,山賊の助けを求めながら八代郡白鳥山に隠れ住んだ。その後この3人は,それぞれ,久連子・椎原・葉木の3家に分かれた。
1083 熊本クマモト 八代郡ヤツシログン 泉村イズミムラ イエショウ   平家ヘイケ落人オチウド ヒサレン平盛ヒラモリイエに,由来ユライショツタわっている。平盛ヒラモリは,もとは緒方オガタセイであったが明治メイジになって改名カイメイした。由来ユライショには,主従シュジュウニンがそれぞれ二人フタリずつミナミダケ西ニシダケキタダケにわかれて開墾カイコンしたとされている。
1084 熊本クマモト 八代郡ヤツシログン 泉村イズミムラ イエショウ ドウサカ 平家ヘイケ落人オチウド 肥後ヒゴの菊池氏の家臣が川辺川に沿って歩いていたところ,川上から椀が流れてきた。不思議に思って川を溯ると,山中深くに焼畑を発見した。しばらく様子をうかがい,人影を見つけたので近づいたところ,清水橋付近で五家荘の者に迎え討たれた。清水橋付近に,「胴切り坂」がある。
1085 熊本クマモト 八代郡ヤツシログン 泉村イズミムラ イエショウ 仁田尾ニタオ 平家ヘイケ落人オチウド 仁田ニッタ旦那ダンナであるクライエには,由来ユライショツタわっている。
1086 熊本クマモト 八代郡ヤツシログン 泉村イズミムラ イエショウ 平家ヘイケオド 平家ヘイケ落人オチウド 毎年マイネン七夕タナバタとおボンには,平家ヘイケオドりがモヨオされる。「タカヤマよ オモいをかきう オモわばいゆめて ユメにもせよ」。オドたちは,シロ長袖ナガソデ紫色ムラサキイロハカマをはき,アカトリカサカムる。十八18になると,未婚ミコンでもめた。
1087 熊本クマモト 球磨郡クマグン ミズ上村カミムラ 古屋敷フルヤシキ   平家ヘイケ落人オチウド 人吉ヒトヨシ盆地ボンチサイオクにある「古屋敷フルヤシキ」は,平家ヘイケ落人オチウド集落シュウラクである。
1088 熊本クマモト 八代郡ヤツシログン 泉村イズミムラ   白鳥シラトリヤマ tキヨキョウ 平清盛の孫の平清経らが平家の残党とともに豊後竹田に入り,緒方三良実国の養子となった。高千穂から緑川渓谷ぞいに今の内大臣あたりを遡行。国見岳から向霧立山地の尾根伝いに南下し,白鳥山(1639m)に館を構えた
1089 熊本クマモト 八代郡ヤツシログン 泉村イズミムラ   白鳥シラトリヤマ tキヨキョウ 現在の白鳥山から500m北の御池あたりに,左中将平清経が約72年間んだ。
1090 熊本クマモト 八代郡ヤツシログン 泉村イズミムラ   白鳥シラトリヤマ tキヨキョウ 平重盛が所有していた「白鳥之鎗」を,三男の平清経が受け継ぎ持参したため,「白鳥山」の名がついた
1091 熊本クマモト 八代郡ヤツシログン 泉村イズミムラ   白鳥シラトリヤマ tキヨキョウ 左中将平清経は緒方市郎清国と改姓カイセイした。その曽孫にあたる緒方盛幸・近盛・実明の三見弟は,白鳥山の御池を出て,椎原・久連子・葉木にそれぞれ分住した。
1092 熊本クマモト 木山キヤマゴウ 福原フクハラムラ   トラ御前ゴゼントウ トラ御前ゴゼン 福原フクハラヤマウエフルツカがあった。そこに,センカエカエハカとともにトラ御前ゴゼンハカがあった。
1093 熊本クマモト   木原キハラムラ 木原キハラヤマ ガンマワヤマ ミナモトタメアサ 鎮西チンゼイ八郎ハチロウタメアサザイシロガン射落イオとしたため,ミネウエガン乱行ランギョウした。そのため,このヤマカリマワリサンぶようになった。
1094 熊本クマモト   木原キハラムラ 木原キハラヤマ ロク殿デン大明神ダイミョウジンミヤ tオモ 治承ジショウネンナカ小松コマツナイ重盛シゲモリ武州ブシュウロクマゴオウ権現ゴンゲン勘定カンジョウした。阿蘇アソ神社ジンジャ末社マッシャである。(阿蘇アソ十二12シャのうち,6ミヤ勧請カンジョウしたとのセツもある
1095 熊本クマモト   木原キハラムラ 木原キハラヤマ ガンマワヤマ海上カイジョウテラ キョウ 治承ジショウ年中ネンチュウに,丹波タンバ少将ショウショウキョウががオニカイシマからラク途中トチュウこの逗留トウリュウし,このテラ建立コンリュウした。
1096 熊本クマモト 山本郡ヤマモトグン ムラ キチトウゲ キチハカ 吉次ヨシジ ミナモト義経ヨシツネ奥州オウシュウミチビいたカネキチは,諸国ショコクメグっていた。この強盗ゴウトウにあいイノチとした。その墳墓フンボヤマウエにあるため,このトウゲキチトウゲばれるようになった。
1097 熊本クマモト 阿蘇郡アソグン 蘇陽町ソヨウマチ カシワ 那須ナス与一ヨイチハカ 那須ナス与一ヨイチ 那須家は、余一の子孫。
ハカは,高さ1.5m幅約0.9mの自然石。文字の判別はできない。
近くのお堂に、余一の愛刀「百足丸」ムカデマルが納められている
1098 佐賀サガ 佐賀市サガシ 嘉瀬カセマチ ホウテラ ホウキョウイントウ 俊寛シュンカン 俊寛シュンカンオニカイシマからノガれてんでいたところ。俊寛シュンカンハカがある。
1099 佐賀サガ 佐賀市サガシ 嘉瀬カセマチ ホウテラ   オウカメオウ 俊寛シュンカン僧都ソウズ介抱カイホウしたオウカメオウハカは,ホウテラより東北トウホクチョウあまりサキにあるナカ小高コダカである。
1100 佐賀サガ 佐賀市サガシ 嘉瀬カセマチ ホウテラ   がま 俊寛シュンカン僧都ソウズオニカイシマにいたときタノしくらしていたがまは,俊寛シュンカン没後ボツゴカナしいコエであまりにもなくので,住職ジュウショクげつけたところ,アシが1ポンれた。そのまま,化石カセキになってノコっている。
1101 佐賀サガ 佐賀市サガシ 嘉瀬カセマチ ホウテラ ホウキョウイントウ 俊寛シュンカン 俊寛シュンカンは,治承ジショウ4ネン3ガツ23に37サイでこのボッした。
1102 佐賀サガ 佐賀市サガシ 嘉瀬カセマチ ホウテラ   俊寛シュンカン カタりをおこなうモウ法師ホウシたちがアツまっていた。
1103 佐賀サガ 佐賀市サガシ 嘉瀬カセマチ     荒木アラキカン入道ニュウドウ 嘉瀬カセショウタイオシモリ領地リョウチであり,荒木アラキカン入道ニュウドウキョウモリ女婿ジョセイ藤原フジワラシゲルキョウ生活セイカツ物資ブッシオクっていた。
1104 佐賀サガ 佐賀市サガシ 嘉瀬カセマチ     藤原フジワラキョウタイラヤスシタヨル 治承ジショウネン(1178)。藤原フジワラキョウヒラヤスシタヨル赦免シャメンになったとき,嘉瀬カセリツムカえた。
1105 佐賀サガ 佐賀市サガシ 嘉瀬カセマチ     俊寛シュンカン 藤原成経と平康頼が赦免になったとき,俊寛シュンカン一緒イッショにやってきた。
1106 佐賀サガ 鳥栖市トスシ ウマハラマチ   シタ水天宮スイテングウ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ二位ニイアマナガれてきたところ。
1107 佐賀サガ 鳥栖市トスシ シタマチ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ潜幸センコウ天皇テンノウわりに入水ニュウスイしたヒト鎮魂チンコンのために小竹オダケマツりをモヨオす。
1108 佐賀サガ 鳥栖市トスシ シタマチ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ二位ニイアマ立石タテイシミギ衛門エモンカクマわれて,肥前ヒゼン松山マツヤマカクんだ。
1109 佐賀サガ 鳥栖市トスシ シタマチ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウは,立石タテイシミギ衛門エモン子息シソク義次ヨシジトモソダった。
1110 佐賀サガ 鳥栖市トスシ シタマチ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ源氏ゲンジわれフネげる。いついた義経ヨシツネは,安徳アントク天皇テンノウノガす。
1111 佐賀サガ 鳥栖市トスシ シタマチ     安徳アントク天皇テンノウ 源氏ゲンジからノガれた安徳アントク天皇テンノウは,シタ記念キネンクスノキををえた。ヨシツギは,チャえ,トモサカえることをイノった。
1112 佐賀サガ 鳥栖市トスシ シタマチ     安徳アントク天皇テンノウ 藤吉フジヨシタネは,安徳アントク天皇テンノウ学問ガクモンサズけた。
1113 佐賀サガ 鳥栖市トスシ シタマチ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウは,藤吉フジヨシタネムスメ千代チヨとのアイダ男児ダンジむ。
1114 佐賀サガ 鳥栖市トスシ シタマチ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウが25サイトキ発病ハツビョウ。(28サイ天然痘テンネントウセツもあり)
1115 佐賀サガ 鳥栖市トスシ シタマチ     安徳アントク天皇テンノウ 立石タテイシミギ衛門エモンタノみで5文字モジノコし,「これをマモりにせよ」と崩御ホウギョ
1116 佐賀サガ 鳥栖市トスシ シタマチ   水天宮スイテングウ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウから大宮司ダイグウジ世襲セシュウするようメイじられた立石タテイシチュウミギ衛門エモン葬儀ソウギををツカサドった。
1117 佐賀サガ 鳥栖市トスシ シタマチ   水天宮スイテングウ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ崩御ホウギョしたツギトシ二位ニイアマ死亡シボウした。水天宮スイテングウマツる。
1118 佐賀サガ 鳥栖市トスシ シタマチ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウノコした版木ハンギ茶碗チャワンがある。
1119 佐賀サガ 佐賀郡サガグン 大和町ヤマトチョウ 水上ミナカミヤマ マン寿ジュテラ 安徳アントク天皇テンノウ マン寿ジュテラ開山カイザン神子カミコ和尚オショウ安徳アントク天皇テンノウである。
1120 佐賀サガ 佐賀郡サガグン 大和町ヤマトチョウ 水上ミナカミヤマ マン寿ジュテラ タイヤスタノ マン寿ジュテラ開山カイザン神子カミコ和尚オショウは,タイヤスタノである。
1121 佐賀サガ 佐賀郡サガグン 大和町ヤマトチョウ 水上ミナカミヤマ マン寿ジュテラ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ二位ニイアマナガれてきて出家シュッケしたところ。安徳アントク天皇テンノウニュウソウテラ建立コンリュウされた。
1122 佐賀サガ 佐賀郡サガグン 大和町ヤマトチョウ 水上ミナカミヤマ マン寿ジュテラ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ二位ニイアマナガれてきて出家シュッケしたマン寿ジュテラには,宝剣ホウケンノコっている。
1123 佐賀サガ 佐賀郡サガグン 大和町ヤマトチョウ 二位ニイアマムラ   安徳アントク天皇テンノウ 二位ニイアマムラがある。
1124 佐賀サガ 佐賀郡サガグン 大和町ヤマトチョウ   黒崎クロサキ 信光ノブミツ信行ノブユキ 信光ノブミツ信行ノブユキ安徳アントク天皇テンノウ駕籠カゴ背負セオってエイ彦山ヒコヤマえ,筑前チクゼン黒崎クロサキ(こやのせ)[北九州市キタキュウシュウシ八幡ヤハタ西ニシ領主リョウシュ山鹿ヤマガヒダリ衛門エモンフジオサヤカタハイる。
1125 佐賀サガ 佐賀郡サガグン 大和町ヤマトチョウ     二位ニイアマ 二位ニイアマは,カミナンジウチ侍所サムライドコロ天皇テンノウ身代ミガわりとして入水ニュウスイ
1126 佐賀サガ 佐賀郡サガグン 大和町ヤマトチョウ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウは,川上カワカミウツジンコウショウした。
1127 佐賀サガ 佐賀郡サガグン 大和町ヤマトチョウ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウは42サイ崩御ホウギョ川上カワカミミヤ陵墓リョウボがある。
1128 佐賀サガ 伊万里市イマリシ 白野シロノ   石塔セキトウ重盛シゲモリさん) 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドは,重盛シゲモリさんという石塔セキトウてた。
1129 佐賀サガ 伊万里市イマリシ 白野シロノ   石塔セキトウ重盛シゲモリさん) 平家ヘイケ落人オチウド 石塔セキトウてた平家ヘイケ落人オチウドは,ムラ創始ソウシシャである。
1130 佐賀サガ 佐賀市サガシ 蓮池町ハスイケマチ 小松コマツ 小松コマツ神社ジンジャ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドみ,タイ重盛シゲモリシタってヤシロてた。現在ゲンザイ小松コマツ神社ジンジャである。
1131 佐賀サガ 佐賀市サガシ 蓮池町ハスイケマチ 小松コマツ 小松コマツ神社ジンジャ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドは,タイ重盛シゲモリレイシズめるためオドりを奉納ホウノウした。現在ゲンザイ小松コマツ風流フウリュウこりである。
1132 佐賀サガ 3ヤシナグン 基山キヤママチ チギヤマ オオオコゼンテラ タイ重盛シゲモリ ダイオコゼンテラ境内ケイダイに,タイ重盛シゲモリ遺髪イハツめたフルトウっている。
1133 佐賀サガ 3ヤシナグン 基山キヤママチ チギヤマ オオオコゼンテラ タイ重盛シゲモリ ダイオコゼンテラ付近フキン小松コマツムラショウした。
1134 佐賀サガ 藤津郡フジツグン 塩田シオダマチ   八幡宮ハチマングウ タイ 建久ケンキュウ元年ガンネン(1190・8)相模サガミ鶴岡ツルガオカ八幡宮ハチマングウ勧請カンジョウタイラユイモリマツられている。
1135 佐賀サガ 藤津郡フジツグン 塩田シオダマチ 久間ヒサマ光武ミツタケ 牛若ウシワカ大明神ダイミョウジン タイ タイってきたウシんだのでそれをマツった。ウシワカ大明神ダイミョウジンショウする。ウシイシシャともいう。
1136 佐賀サガ 藤津郡フジツグン 塩田シオダマチ   中将チュウジョウマツ タイ タイったマツがある。中将チュウジョウマツショウする。
1137 佐賀サガ 藤津郡フジツグン 塩田シオダマチ   烏帽子エボシ タイ タイ烏帽子エボシててつけていたため,「烏帽子エボシ」という地名チメイがついた。
1138 佐賀サガ 藤津郡フジツグン 塩田シオダマチ シモ久間ヒサマ シャ タイ タイ虫除ムシヨけの方法ホウホウコウじた。シャがある。
1139 佐賀サガ 藤津郡フジツグン 塩田シオダマチ ツネザイテラ タイアツシハカ タイアツシ タイアツシ供養クヨウトウであるタカラキョウイントウがある。
1140 佐賀サガ キネシマグン 山内ヤマウチマチ フネハラ かんこオド タイ落人オチウド かんこオドりは,平家ヘイケ落人オチウドがはじめたものである。
1141 佐賀サガ 東松浦郡ヒガシマツウラグン キビマチ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウは,源氏ゲンジへのウラみをめて力一杯チカライッパイイシんだ。その両足リョウアシアトノコっている。
1142 佐賀サガ 東松浦郡ヒガシマツウラグン キビマチ   カサかぶりの神様カミサマ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドハカがある。カサをかぶった石塔セキトウがあり,カサかぶりの神様カミサマばれている。
1143 佐賀サガ 武雄タケオ 矢筈ヤハズ   巨石キョセキ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドカクれた大石オオイシがあった。
1144 佐賀サガ 武雄タケオ 矢筈ヤハズ     平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドツクってっていた。
1145 佐賀サガ 神埼郡カンザキグン 三瀬村ミツセムラ   石塔セキトウ重盛シゲモリさん) 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウド恋人コイビトウバわれたキコリが,落人オチウドコロした。オンナ入水ジュスイした。落人オチウドホウムったところに石塔セキトウノコっている。
1146 佐賀サガ 佐賀郡サガグン ミズ上村カミムラ 寿ジュゼンテラ   エイソン 栄尊エイソンは,佐賀郡サガグンミズウエムラ寿ジュゼンテラ開山カイザンした。
1147 佐賀サガ 小城郡オギグン 小城町オギマチ イワクラテラ   トラ御前ゴゼン トラ御前ゴゼンは,オニオウダン三郎サブロウダイキョウカイ参詣サンケイした。トラ書写ショシャしたキョウを,ダン三郎サブロウカタナオサめた。
1148 佐賀サガ 小城郡オギグン 小城町オギマチ イワクラテラ 曽我ソガ殿トノ腰掛コシカイシ トラ御前ゴゼン トラ御前ゴゼン参詣サンケイしたとき,イシウエ曽我ソガ兄弟キョウダイ姿スガタアラワれ,ニョホウキョウカイ聴聞チョウモンした。
1149 佐賀サガ 武雄市タケオシ 武雄町タケオマチ ナラ 曾我ソガ兄弟キョウダイ供養クヨウトウ トラ御前ゴゼン トラ御前ゴゼンは,武雄タケオ源氏ゲンジゆかりのであるとり,当地トウチ逗留トウリュウして曾我ソガ兄弟キョウダイ供養クヨウするためにトウてた。
1150 佐賀サガ 多久市タクシ ヒガシ多久町タクマチ シブ 曾我ソガ兄弟キョウダイハカ トラ御前ゴゼン トラ御前ゴゼン少将ショウショウが,曾我ソガ兄弟キョウダイハカてた。
1151 佐賀サガ 多久市タクシ ヒガシ多久町タクマチ シブ トラキヨミズ トラ御前ゴゼン 曾我ソガ兄弟キョウダイハカのそばに,トラんだというトラ清水シミズがある。
1152 佐賀サガ 多久市タクシ ヒガシ多久町タクマチ シブ トラ腰掛コシカイワ トラ御前ゴゼン 曾我ソガ兄弟キョウダイハカのそばに,トラ御前ゴゼン腰掛コシカイワがあった。
1153 長崎ナガサキ  長崎市ナガサキシ 伊王島イオウジママチ     俊寛シュンカン キョウヤスタヨル俊寛トシヒロ伊王島イオウジマナガされた。シゲルキョウヤスタヨル帰郷キキョウするとき,俊寛トシヒロオオきなイワウエ足摺アシズりをしてサケんだ。
1154 長崎ナガサキ  長崎市ナガサキシ 伊王島イオウジママチ   ヤスタノ舞台ブタイイシ tヤスタノ tヤスライが,ホラダケ山頂サンチョウ岩殿イワドノウツクノゾみながら[マイ]をった。これにチナんでヤスライ舞台ブタイイシがおこった。
1155 長崎ナガサキ  長崎市ナガサキシ 伊王島イオウジママチ 武庫山ムコヤマ ホンマツ 俊寛シュンカン 俊寛シュンカン墓碑ボヒっている。俊寛シュンカンタズねてユウ王丸オウマルがたオトズれた。俊寛トシヒロナゲきつつも,ついに断食ダンジキして死亡シボウユウ王丸オウマルは,菩提ボダイトムラうために1ホンマツえた。
1156 長崎ナガサキ  長崎市ナガサキシ 伊王島イオウジママチ 武庫山ムコヤマ   俊寛シュンカン 治承ジショウ元年ガンネン(1177)5ガツ俊寛シュンカンヤスタノキョウ肥前ヒゼン嘉瀬カセマサについた。そこから,伊王島イオウジマオクられてきた。
1157 長崎ナガサキ  長崎市ナガサキシ 伊王島イオウジママチ 武庫山ムコヤマ 熊野クマノ権現ゴンゲン 俊寛シュンカン ヤスタノキョウ熊野クマノ権現ゴンゲンホコラをつくり参詣サンケイした。
1158 長崎ナガサキ  長崎市ナガサキシ 伊王島イオウジママチ 武庫山ムコヤマ   俊寛シュンカン 嘉瀬カセショウから荒木アラキカン食物ショクモツってやってきた。
1159 長崎ナガサキ  長崎市ナガサキシ 伊王島イオウジママチ 武庫山ムコヤマ   俊寛シュンカン 安徳アントク天皇テンノウ安産アンザン祈願キガンのため,流人ルニンミヤコカエ命令メイレイトドいた。しかし,俊寛シュンカンシマノコされた。
1160 長崎ナガサキ  長崎市ナガサキシ 伊王島イオウジママチ 武庫山ムコヤマ   俊寛シュンカン キョウヤスタヨル帰京キキョウ数年スウネンユウオウ俊寛トシヒロムカえにた。しかし,俊寛トシヒロ伊王島イオウジマくなった。
1161 長崎ナガサキ  長崎市ナガサキシ 伊王島イオウジママチ 武庫山ムコヤマ 俊寛シュンカンハカ 俊寛シュンカン オウは,俊寛シュンカンホウムり1ホンマツえた。俊寛シュンカンハカは,伊王島イオウジマ小学校ショウガッコウ運動場ウンドウジョウになっている。
1162 長崎ナガサキ  島原市シマバラシ 深江町フカエチョウ 安徳アントク 安徳アントク神社ジンジャ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウカンムリナガく。安徳アントク神社ジンジャマツる。寛政カンセイネン普賢岳フゲンダケ噴火フンカ土砂ドシャまった。大正タイショウ時代ジダイ初期ショキ再建サイケン昭和ショウワ60ネン安徳アントク天皇テンノウ800年祭ネンサイモヨオし,現在ゲンザイコイのぼりでニギわうことでられている。
1163 長崎ナガサキ  ミナミ高来コウライグン 国見町クニミマチ イカダ 安徳アントク天皇テンノウリョウ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ陵墓リョウボがある。「8つのオウ」とばれている。
1164 長崎ナガサキ  ミナミ高来コウライグン 国見町クニミマチ イカダ 乳母ウバツカ 乳母ウバ 乳母ウバツカがある。
1165 長崎ナガサキ  ミナミ高来コウライグン 国見町クニミマチ イカダ   安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウイカダナガいたため,「イカダ」という地名チメイがついた。
1166 長崎ナガサキ  ミナミ高来コウライグン 国見町クニミマチ 神代クマシロヒガシサトイカダ ソデサカ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドナガソデきながら往来オウライしたため「ソデサカ」とづけられた。
1167 長崎ナガサキ  ミナミ高来コウライグン 口之津クチノツマチ     平家ヘイケ落人オチウド 大屋オオヤの「タイ」「オオ平良タイラ」のセイは,平家ヘイケ末流マツリュウであるとされる。
1168 長崎ナガサキ  ミナミ高来コウライグン 深江町フカエマチ ヤマテラ 平家ヘイケ集落シュウラク 平家ヘイケ落人オチウド 深江町フカエマチヤマテラは,平家ヘイケ落人オチウド集落シュウラクである。
1169 長崎ナガサキ  ミナミ高来コウライグン 深江町フカエマチ 権現ゴンゲンワキ 門脇カドワキ神社ジンジャ タイオシ 島原市シマバラシ安徳アントクからノガれてきたタイオシマツる。
1170 長崎ナガサキ  諫早市イサハヤシ   有喜ウキ   安徳アントク天皇テンノウ 島原市シマバラシ安徳アントクから,安徳アントク天皇テンノウ雲仙ウンゼンえて南串山ミナミクシヤママチキョウ有喜ウキいた。
1171 長崎ナガサキ  諫早市イサハヤシ   有喜ウキ   安徳アントク天皇テンノウ 有喜ウキヤマ安徳アントク天皇テンノウガケからちた。そのときに,まったイワがある。
1172 長崎ナガサキ  諫早市イサハヤシ 小川町オガワマチ オンナオツ 二位ニイアマモリ 二位ニイアマ 二位ニイアマモリるとタタりがある。
1173 長崎ナガサキ  諫早市イサハヤシ 小川町オガワマチ オンナオツ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ 平家ヘイケ落人オチウドサトがある。ヤマ頂上チョウジョウに「安徳アントクテン」とキザまれたがある。ムカシ,この安徳アントク天皇テンノウカクんだが,源氏ゲンジつかり不運フウン最期サイゴげた。サトヒトたちは天皇テンノウ崩御ホウギョカナしみ,手厚テアツホウムり,石碑セキヒてた。
1174 長崎ナガサキ  諫早市イサハヤシ 香田コウダ   墓石ボセキ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントクさん」とばれる墓石ボセキがある。
1175 長崎ナガサキ  諫早市イサハヤシ 鷲崎ワシザキ     平家ヘイケ落人オチウド ニン平家ヘイケ落人オチウドんだ。
1176 長崎ナガサキ  キタ松浦マツウラグン 吉井町ヨシイマチ チョクタニカワ 手水チョウズカワ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウがここでアラった。
1177 長崎ナガサキ  キタ松浦マツウラグン 吉井町ヨシイマチ チョクタニカワ チンフチ 安徳アントク天皇テンノウ 内裏ダイリヤマのそばをナガれるチョクタニカワで,安徳アントク天皇テンノウミズんだ。そこを,「チンフチ」とぶ。
1178 長崎ナガサキ  キタ松浦マツウラグン 吉井町ヨシイマチ クサ   平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドんだ。キョウナマりでハナす。
1179 長崎ナガサキ  キタ松浦マツウラグン 宇久町ウクマチ 飯良イイラゴウ   タイイエ タイイエ上陸ジョウリクタスけた海人アマ領海リョウカイケンアタえた。シマ一帯イッタイ支配シハイ
1180 長崎ナガサキ  キタ松浦マツウラグン 宇久町ウクマチ 飯良イイラゴウ 八幡ヤハタグウ タイイエ この上陸ジョウリクしたタイイエによって,領海権リョウカイケンアタえられたウミヒト八幡宮ヤハタグウてた。
1181 長崎ナガサキ  キタ松浦マツウラグン 宇久町ウクマチ 上浦カミウラ西ニシ   タイイエ タイイエ上陸ジョウリクタスけた衛門エモン中村ナカムラセイアタえた。
1182 長崎ナガサキ  キタ松浦マツウラグン 宇久町ウクマチ 上浦カミウラ西ニシ サキ タイイエ タイイエ上陸ジョウリクしたところを「サキ」とぶ。
1183 長崎ナガサキ  キタ松浦マツウラグン 宇久町ウクマチ 上浦カミウラ西ニシ フネカク タイイエ タイイエりが上陸ジョウリクするときにフネカクしたところを「フネカク」という。
1184 長崎ナガサキ  キタ松浦マツウラグン 宇久町ウクマチ 上浦カミウラ西ニシ シロ タイイエ タイイエは,山本ヤマモトシロキズいてんだ。
1185 長崎ナガサキ  キタ松浦マツウラグン 鹿町シカマチ ウタウラ フネムラ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドウタウラ上陸ジョウリクし,そこにんだ。「フネムラ」とづけた。
1186 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ 久根クネシャ   安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウは,福岡県フクオカケン甘木市アマギシ黒川クロカワ成長セイチョウ。その長崎県ナガサキケンキタ松浦マツウラグン吉井町ヨシイマチチョクタニシロ成人セイジンした。
1187 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ 久根クネシャ   安徳アントク天皇テンノウ 吉井町ヨシイマチチョクタニシロ成人セイジンした安徳アントク天皇テンノウ島津シマヅオンナ結婚ケッコンした。オモヒサシスケクニまれた。
1188 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ 久根クネシャ   安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ島津シマヅイエ息女ソクジョメトった。その,惟家・重尚(シゲノブ)がまれ,ふたりは,斎藤帯刀(タテワキ)ら二百余騎を率いて,寛元カンゲンネン(1246)に対馬ツシマリュウ(アビル)クニシンホロぼして地頭ジトウとなった。対馬ツシマ宗家ソウケは,ムネ後裔コウエイである。
1189 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ 久根クネシャ 内院ナイイン 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウリョウ伝説デンセツのそばに,「内院ナイイン」という地名チメイがある。
1190 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ 久根クネシャ   安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ島津シマヅオンナ結婚ケッコンしてまれたオモヒサ対馬ツシマワタった。その安徳アントク天皇テンノウムカれ,久根クネシャんだ。安徳アントク天皇テンノウは74サイ崩御ホウギョ
1191 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ 久根クネシャ 安徳アントク天皇テンノウ陵墓リョウボ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ陵墓リョウボがある。享和キョウワ年間ネンカン(1801〜1803)に久根クネ田舎イナカイシカクた。ナカには,銅器ドウキテツがあった。明治メイジ16ネン4ガツ5リョウハカ見込ミコサダめられ,明治メイジ43ネンリョウハカ伝説デンセツ昭和ショウワネン6ガツリョウハカ参考サンコウアラタめられた。
1192 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ 久根クネシャ オサ殿トノツカ 平家ヘイケ落人オチウド オサ殿トノツカは,安徳アントク天皇テンノウ奉仕ホウシした人々ヒトビトツカだといわれている。
1193 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ 久根クネシャ 犬塚イヌヅカ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ由来ユライする犬塚イヌヅカがある。
1194 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ 久根クネシャ 馬塚ウマヅカ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ由来ユライするウマツカがある。
1195 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ マメ カクヤマ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ一時イチジカクれたヤマを「カクヤマ」(かぐすやま)という。
1196 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ マメ スベラギ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウカクヤマから久根クネウツるときオオきな三角サンカクイワシタ潮待シオマちをした。そのイワを「スベラギ」(こうのこ)という。
1197 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ ヒサ 安徳アントク天皇テンノウハカ 安徳アントク天皇テンノウ サイサン森中モリナカ五輪塔ゴリントウがあり,安徳アントク天皇テンノウハカツタえられる。
1198 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ ヒサ シタガシンハカ 平家ヘイケ落人オチウド 安徳アントク天皇テンノウハカツタえられるヤマ五輪ゴリントウチカくに,シタガシンたちのハカがある。
1199 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ ゲンハラ 八幡宮ハチマングウ天神テンジンシャ 安徳アントク天皇テンノウ 八幡宮ハチマングウ境内ケイダイ天神テンジンシャ安徳アントク天皇テンノウマツる。
1200 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン ゲン原町ハラマチ 内山ウチヤマ   オモヒサ 安徳アントク天皇テンノウ長子チョウシオモヒサんだ。
1201 長崎ナガサキ  下県郡シモアガタグン 豊玉トヨタママチ 二位ニイ   タイムネ タイムネ5セイマゴて,このオサめた。ヤカタアトがある。
1202 長崎ナガサキ  ウエアガタグン ウエアガタマチ   平家ヘイケツカ   平家ヘイケツカがある。
1203 長崎ナガサキ    対馬ツシマ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ子供コドモニン対馬ツシマオサめた。
1204 長崎ナガサキ  西ニシカレキネグン 野母崎ノモザキチョウ   高浜タカハマムラ 三浦ミウラ能仲ノウナカ 落人オチウド三浦ミウラノウナカ殿トノクラヤマ城山シロヤマシロキズいた。高浜タカハマムラ開祖カイソである。
1205 長崎ナガサキ  西ニシカレキネグン 大瀬戸オオセトマチ   タイムラ 平家ヘイケ落人オチウド タイムラ平家ヘイケゆかりのものがヒラいた。
1206 長崎ナガサキ  西ニシカレキネグン 大瀬戸オオセトマチ     タイオモ タイ重盛シゲモリ山中サンチュウカクんだ。ナベカマカタチイシがある。
1207 長崎ナガサキ  西ニシカレキネグン 大瀬戸オオセトマチ 小松コマツ   タイ重盛シゲモリ タイ重盛シゲモリヤカタがあったため,キョウを「小松コマツ」という。
1208 長崎ナガサキ  西ニシカレキネグン 大瀬戸オオセトマチ     タイ 平家ヘイケツカがある。ヒラハカといわれる。
1209 長崎ナガサキ  西ニシカレキネグン 大瀬戸オオセトマチ シタゴウ 平家塚ヘイケツカ   平家塚ヘイケツカがある。「すみよしサマ」とばれている。
1210 長崎ナガサキ  長崎市ナガサキシ 三重町ミエマチ 樫山カシヤマゴウ ツカ タイ タイクビツカとされる古墳コフンがある。
1211 長崎ナガサキ  長崎市ナガサキシ タチ     平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドんだ。
1212 長崎ナガサキ  福江市フクエシ カタ     タイイエ タイイエとその家来ケライ上陸ジョウリクした。約束ヤクソクヤブ里人サトビト源氏ゲンジ密告ミッコクしたため,イエたちは自害ジガイした。サトイエは6ケンよりえない。
1213 長崎ナガサキ  福江市フクエシ カタ   平家ヘイケツカ 平家ヘイケ落人オチウド 平家塚ヘイケツカがある。
1214 長崎ナガサキ  ミナミ松浦マツウラグン 奈良ナラマチ     平家ヘイケ落人オチウド 吉川ヨシカワシン四郎シロウは,平家ヘイケ落人オチウドである。
1215 長崎ナガサキ  ミナミ松浦マツウラグン 奈留ナルチョウ 三本松サンボンマツ 平家塚ヘイケツカ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドマツった平家塚ヘイケツカがある。るとタタったため,ホコラててマツった。
1216 長崎ナガサキ  ミナミ松浦マツウラグン 奈留ナルチョウ ハクゴウ 平家塚ヘイケツカ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケツカがある。「どやま」とぶ。
1217 長崎ナガサキ  ミナミ松浦マツウラグン 奈留ナルチョウ 大串オオグシゴウ イケツカ 平家ヘイケ落人オチウド 大串オオグシゴウ西江ニシエウエのは,平家ヘイケサン姉妹シマイ「とよヒメ」「つるヒメ」「さよヒメ」をマツる。
1218 長崎ナガサキ  ミナミ松浦マツウラグン 奈留ナルチョウ 椿ツバキハラ 平家塚ヘイケツカ 平家ヘイケ落人オチウド 平家塚ヘイケツカがある。
1219 長崎ナガサキ  ミナミ松浦マツウラグン 若松町ワカマツマチ サカキウラ 三年サンネンウラ 平家ヘイケ落人オチウド シロイヌをつれた平家ヘイケ落人オチウドが4ニンて,3ネンアイダサカキウラカクんだ。そのを「三年サンネンウラ」とづけられた。
1220 長崎ナガサキ  ミナミ松浦マツウラグン 若松町ワカマツマチ   リュウオトリュウソンツカ 平家ヘイケ落人オチウド 三年サンネンウラカクれていた平家ヘイケ落人オチウドは,イヌえたため源氏ゲンジつかり自刃ジジンした。埋葬マイソウしたところをるとタタった。リュウオトリュウソンツカマツる。
1221 長崎ナガサキ  ミナミ松浦マツウラグン 若松町ワカマツマチ ハマ 草履ゾウリけのマツ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドがこのマツ草履ゾウリけ,コロモアタマせてオヨいでげた。そこで,このマツを「草履ゾウリけのマツ」とショウするようになった。若松町ワカマツマチサカキウラ三年サンネンウラ谷間タニマカクれた。
1222 長崎ナガサキ  ミナミ松浦マツウラグン 奈留ナルチョウ 江上エガミ   平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウド夏井ナツイ上陸ジョウリク大串オオグシヒラいた。
1223 長崎ナガサキ  ミナミ松浦マツウラグン 岐宿キシクチョウ     平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウド竹林タケバヤシになった。
1224 長崎ナガサキ  佐世保市サセボシ 横手ヨコテ ココロメン カクヒダケ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドカクれた洞窟ドウクツがある。
1225 大分オオイタ 速見郡ハヤミグン 山香町ヤマガマチ 西ニシ中尾ナカオ 八幡宮ハチマングウ 小松コマツヒカリ 小松コマツヒカリ宇佐ウサ八幡宮ハチマングウから勧請カンジョウした八幡宮ハチマングウがある。
1226 大分オオイタ 東国東ヒガシクニサキグン 国東町クニサキマチ     八郎ハチロウ 遺臣イシン八郎ハチロウソウになり,平家ヘイケ追善ツイゼン供養クヨウをした。
1227 大分オオイタ 東国東ヒガシクニサキグン 国東町クニサキマチ 粟嶋アワシマ神社ジンジャ タイ清盛キヨモリムスメ セマ海岸カイガンに,タイ清盛キヨモリの7ニンムスメウチのひとりがフネってナガされてきた。このムスメは,婦人病フジンビョウにかかって,ふためとられぬ婦人病フジンビョウカカっていた。ムスメマエに,コシからシタヤマイスクカミとなることをチカった。この小舟コブネコワしたイシ男根ダンコンていたところから,カメアタマにあたるところをウエにして,5スンオオきさのアナってヒメタマシイアンとした。それが,現在ゲンザイ粟嶋アワシマ神社ジンジャである。
1228 大分オオイタ 東国東ヒガシクニサキグン 国東町クニサキマチ 殿トノ   タイムネ タイムネんでいた。
1229 大分オオイタ 東国東ヒガシクニサキグン 国東町クニサキマチ ナガフサ   タイナガフサ タイナガフサんでいた。
1230 大分オオイタ 西ニシ国東クニサキグン 真玉町マタママチ マツタイ 大明神ダイミョウジン 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドツマっていたイシボウ大明神ダイミョウジンとしてマツる。
1231 大分オオイタ 杵築キヅキ ウマ本村ホンムラ   談合ダンゴウドウ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウド談合ダンゴウした小堂ショウドウがある。談合ダンゴウドウばれている。
1232 大分オオイタ 宇佐市ウサシ 森山モリヤマ     安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウんだ宇佐ウサ大宮司ダイグウジ公通キミミチカンがあった。
1233 大分オオイタ 宇佐市ウサシ 長洲ナガス   イケサマ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ上陸ジョウリクしてヤスんだところ。イケガワホコラ天皇テンノウマツる。
1234 大分オオイタ 宇佐市ウサシ カネ   ウマサマイケ 安徳アントク天皇テンノウ 安徳アントク天皇テンノウ宇佐ウサ行幸ギョウコウしたとき,カミウマキヨめたイケを「ウマサマイケ」という。
1235 大分オオイタ 宇佐市ウサシ   高田タカダ街道カイドウ   安徳アントク天皇テンノウ  
1236 大分オオイタ 宇佐市ウサシ 柳ヶ浦ヤナギガウラ 小松コマツウラ キヨキョウハカ タイキヨキョウ タイキヨキョウ入水ニュウスイしたウラを,「小松コマツウラ」という。清経キヨツネハカがある。
1237 大分オオイタ 宇佐市ウサシ 明治村メイジムラ ウケクチジツモリ 烏帽子エボシヤマ タイジツモリ タイジツモリは,烏帽子エボシヤマモグ。このてた。ジツモリハカがある。
1238 大分オオイタ 宇佐郡ウサグン 安心アンシンインマチ トクタノ   平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウド集落シュウラクがある。
1239 大分オオイタ 宇佐郡ウサグン 院内インナイマチ 平原ヘイゲン   平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドニンが,源氏ゲンジわれてげてきた。1人ヒトリは,ホンマツ山頂サンチョウって割腹カップクした。そして,追手オッテ源氏ゲンジ武将ブショウかって自分ジブン臓物ゾウモツげつけた。その一部イチブっかかり,「ゾウカケマツ」とばれるようになった。
1240 大分オオイタ 宇佐郡ウサグン   長峰ナガミネ 清水寺キヨミズデラ タイ重盛シゲモリ タイ重盛シゲモリハカがある。
1241 大分オオイタ 宇佐郡ウサグン   芝原シバハラ 善光寺ゼンコウジ タイ重盛シゲモリ タイ重盛シゲモリハカがある。
1242 大分オオイタ 宇佐郡ウサグン   天津テンシン 広瀬ヒロセ神社ジンジャ タイ重盛シゲモリ タイ重盛シゲモリハカがある。
1243 大分オオイタ シタグン 耶馬溪町ヤバケイマチ 耶馬溪ヤバケイ 羅漢寺ラカンジ タイ重盛シゲモリ タイ重盛シゲモリハカがある。
1244 大分オオイタ シタグン   マグサ 長谷寺ハセデラ タイ重盛シゲモリ タイ重盛シゲモリハカがある。
1245 大分オオイタ シタグン 耶馬溪町ヤバケイマチ イエ 山国ヤマグニカワ 平家ヘイケ落人オチウド 宇佐市ウサシタカイエ(たかい)やシモショウヌノハマ上陸ジョウリクした平家ヘイケ落人オチウドは,イマからイヌ丸川マルカワサカノボ山国ヤマグニカワ流域リュウイキシロ一族イチゾク庇護ヒゴける。
1246 大分オオイタ シタグン 耶馬溪町ヤバケイマチ イエ   平家ヘイケ落人オチウド 山国ヤマグニカワからカキサカえてヤマウツカワて,イエ(えごもり)に到着トウチャク。ここに,ナガらくいた。
1247 大分オオイタ シタグン 耶馬溪町ヤバケイマチ イエ もうらくのサカ 平家ヘイケ落人オチウド 平家落人がイエマエサカを,「もうらくのサカ」という。いまは,「もうだくのサカ」とわれる。
1248 大分オオイタ シタグン 耶馬溪町ヤバケイマチ 宮園ミヤゾノ 八幡ヤハタ神社ジンジャ 河童カッパ 平家ヘイケ残党ザントウレイ河童カッパになってガイをなすので,ガクハジめた。→大分県オオイタケン玖珠郡クスグン玖珠町クスマチシタ横尾ヨコオカメミヤコ神社ジンジャ(『日本伝説体系』13巻北九州編p.146)にも,音楽オンガクソウして平家ヘイケレイ慰撫イブした伝承デンショウがある。
1249 大分オオイタ シタグン 山国ヤマグニマチ     河童カッパ 筑後川チクゴガワ入水ジュスイ河童カッパになった平氏ヘイシレイナグサめるためにハジめられたラクが,玖珠郡クスグン古後コゴからツタわった。白地シラジラクという。
1250 大分オオイタ 中津市ナカツシ 奥平オクダイラ     河童カッパ 平氏ヘイシレイ河童カッパになり,オンナいてまれわろうとした。海門カイモン和尚オショウ仏縁ブツエンムスばせわび証文ショウモンかせた。
1251 大分オオイタ 中津市ナカツシ 藤田フジタ     タイ タイハカウエイエてた家族カゾク三代サンダイ盲人モウジンまれた。
1252 大分オオイタ 日田郡ヒタグン マエ津江ツエムラ   弥太郎ヤタロウ屋敷ヤシキ 弥太郎ヤタロウ 落人オチウド弥太郎ヤタロウダマされてコロされた。
1253 大分オオイタ 日田郡ヒタグン マエ津江ツエムラ   弥太郎ヤタロウフチ 弥太郎ヤタロウ 落人オチウド弥太郎ヤタロウダマされてコロされた。
1254 大分オオイタ 日田郡ヒタグン マエ津江ツエムラ   弥太郎ヤタロウツカ 弥太郎ヤタロウ 落人オチウド弥太郎ヤタロウダマされてコロされた。
1255 大分オオイタ 日田郡ヒタグン テンマチ 湯山ユヤマ はなだはんすけのハカ はなだはんすけ 落人オチウドはなだはんすけのハカがある。平家ヘイケ屋敷ヤシキ平家ヘイケ井川イカワ(いご)がある。
1256 大分オオイタ 日田郡ヒタグン テンマチ カクインザン   平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドんだ。カガミウス
1257 大分オオイタ 玖珠郡クスグン 玖珠町クスマチ マクナギ   平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドマクったためまれた地名チメイ
1258 大分オオイタ 玖珠郡クスグン 玖珠町クスマチ   カメミヤコ神社ジンジャ 平家ヘイケ落人オチウド 筑後チクゴクニガクヒトから音楽オンガク秘術ヒジュツした巻物マキモノサズけられた農民ノウミンムラモノにこれをナラわせ,その子孫シソン筒井ツツイ6衛門エモン春行ハルイキが,玖珠郡クスグン岩室村イワムロムラ童子ドウジツタえた。
1259 大分オオイタ 玖珠郡クスグン 九重町ココノエマチ 平家ヘイケヤマ   平家ヘイケ落人オチウド 源氏ゲンジ平氏ヘイシとは,このヤマニギ一緒イッショ帰農キノウした。しかし,タガいにウジだけはワスれないようにと,小正月コショウガツアサカユに,源氏ゲンジモチれたシロカユ平家ヘイケ子孫シソン小豆アズキアカカユツクっている。
1260 大分オオイタ 玖珠郡クスグン 九重町ココノエマチ 平家ヘイケヤマ   平家ヘイケ落人オチウド オオくの平家ヘイケ落人オチウドいた。帰洛キラクノゾみがたせないため,その妄執モウシュウによってサルまれわった。享保キョウホウのころまで,平家ヘイケ100ヒキといわれるほどオオかったが,作物サクモツらすので猟師リョウシが87ヒキコロした。そのナカ一匹イッピキは,シュちたシュサヤカタナっていた。
1261 大分オオイタ 玖珠郡クスグン 九重町ココノエマチ 松木マツキ宝山タカラヤマ   平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドみ,軍資金グンシキンカクした。
1262 大分オオイタ 玖珠郡クスグン 九重町ココノエマチ     平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドヒラいた平家ヘイケタニがある。
1263 大分オオイタ 大分郡オオイタグン 湯布院ユフインマチ イネダケ 立石タテイシイケ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ残党ザントウたれ,立石タテイシイケミズアカまった。
1264 大分オオイタ 大分郡オオイタグン ショウナイマチ 阿蘇アソクロタケ かくしミズ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドクロダケカクんだ。白拍子シラビョウシもつれていた。
1265 大分オオイタ 大分郡オオイタグン ショウナイマチ 阿蘇アソクロタケ 白拍子シラビョウシ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウド白拍子シラビョウシれてきていたため,「白拍子シラビョウシ」の地名チメイがつけられた。
1266 大分オオイタ 大分郡オオイタグン ショウナイマチ 阿蘇アソ 上臈イシ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドってきたジョウロウ自殺ジサツした。遺体イタイイシになり「上臈イシ」とばれた。
1267 大分オオイタ 大分郡オオイタグン ショウナイマチ 阿蘇アソ 小松コマツイケ 平家ヘイケ落人オチウド 上臈イシのそばにあるイケを「小松コマツイケ」とぶ。
1268 大分オオイタ 直入郡ナオイリグン 久住町クジュウマチ クロダケ 女郎ジョロウイシ 平家ヘイケ落人オチウド クロダケフモトに「女郎ジョロウイシ」があり,そばにホコラっている。平家ヘイケ滅亡メツボウトキ,ひとりの上臈(身分ミブンタカオンナセイ)がこのムラノガれてきたが,らえられコロされ,そのウラみでイシした。このイシにさわると大雨オオアメる。この伝承とよく似たプロットは,熊本県通潤橋のそばにある。[京都から平家公達を追ってきた女臈がやってきたが,平家ヘイケ公達キンダチがすでにタニこうにったといてイシした。]オオくのイワナカホコラっている。
1269 大分オオイタ 直入郡ナオイリグン 萩町ハギマチ 神原カミハラ   平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドんでいた。
1270 大分オオイタ 大野郡オオノグン 三重町ミエマチ 内田ウチダ   平家ヘイケ女性ジョセイ 平家ヘイケ女官ニョカンニンが,内田ウチダ部落ブラクノガれてきた。官女カンジョたちに一夜イチヤ宿ヤドした夫婦フウフは,カカわりいになるのをオソれ,「源氏ゲンジがすぐそこまでている」とげた。女官ニョカンたちはツカてていたため,井戸イドナカトウじてんだ。それから,毎夜マイヨ井戸イドからヒカるものがミナミしてんでいった。夫婦フウフは,クルって井戸イド身投ミナげをした。9ニン女官ニョカン夫婦フウフを,「吉井ヨシイ明神ミョウジン」としてマツった。
1271 大分オオイタ 南海ナンカイグン チョクカワムラ 横川ヨコカワ 鹿シカサマ 平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドしたツエ大木タイボクになった。鹿シカサマばれ,サワるとタタる。
1272 大分オオイタ 南海ナンカイグン チョクカワムラ 横川ヨコカワ 鹿シカサマ 平家ヘイケ落人オチウド 鹿シカサマヨコ落人オチウドホウムった。
1273 大分オオイタ 南海ナンカイグン チョクカワムラ ウエチョク ミヤシタ タイヒカリヒカリクニ 緒方オガタサカ平家ヘイケ軍勢グンゼイ急襲キュウシュウしたとき,サカノガれてタイラ光世コウヨ光国ミツクニ兄弟キョウダイ佐伯サエキショウげてきた。
1274 大分オオイタ 南海ナンカイグン チョクカワムラ ナオウミ   タイヒカリヒカリクニ タイヒカリヒカリクニげてきたとき,蕎麦ソバハナいているのをて,「ナオウミなるや」とタズねた。そこで,このを「ナオウミ」(なおうみ)とぶようになった。
1275 大分オオイタ 南海ナンカイグン チョクカワムラ   厳島イツクシマ神社ジンジャ タイヒカリヒカリクニ 村人ムラビトたちがタイヒカリヒカリクニる。ヒカリは,ヒジかれモリナカカクれた。その二人フタリユメ厳島イツクシマサンハシラ大神ダイジンアラワれた。そこで,ふたりは,厳島イツクシマ神社ジンジャ勧請カンジョウしたところ,ヒジイタみはたちどころにえた。
1276 大分オオイタ 南海ナンカイグン チョクカワムラ   かくれ タイヒカリヒカリクニ タイヒカリヒカリクニは,深山シンザンヒソめる。そこを「かくれ」とショウした。
1277 大分オオイタ 南海ナンカイグン チョクカワムラ イン   タイヒカリヒカリクニ タイヒカリクニヒカリは,ウシにまたがってヤマえ,インサトびた。
1278 大分オオイタ 南海ナンカイグン チョクカワムラ イン   タイヒカリヒカリクニ タイヒカリヒカリクニは,緒方オガタサカらえられ,悲惨ヒサン最期サイゴげた。二人フタリは,そのオコレイとなったため里人サトビトは「チョウ」「マエタカ」の両社リョウシャマツった。
1279 大分オオイタ 南海ナンカイグン チョクカワムラ   ヒジキリ神社ジンジャ タイヒカリヒカリクニ ハシラ厳島イツクシマ神社ジンジャカミオソれかしこみつつ,社殿シャデン建立コンリュウし,ヒジ神社ジンジャとしてアガタテマツった。
1280 大分オオイタ 臼杵市ウスキシ       平家ヘイケ落人オチウド 平家ヘイケ落人オチウドで「シャ」というモノんでいる。ミヤコちるときムスメシツクヒマもなく布袋ホテイにいれ「シャこう」といって出発シュッパツした。そのため,「シャ」とばれるようになった。頭上ズジョウ運搬ウンパン習慣シュウカンノコっている。源氏ゲンジわれたとき,アタマ荷物ニモツせてカワ</