| コード | 県 | 市 | 町 | 地 名 | 関係地(事項) | 登場人物 | 内 容 |
| 1001 | 熊本 | 天草市 | 有明町 | 平 | 平重盛 | 源平の合戦で敗れた平重盛が下津浦にきた。その後,ギオン山に隠れた。そこを,「平」と呼ぶようになった。 | |
| 1002 | 熊本 | 天草市 | 竜ケ岳町 | 大道 | 瀬戸 | 平家落人 | 壇ノ浦合戦で敗れた平家軍は,九州に四散。 一部は,天草の上島と下島の東海岸に身を潜めた。 |
| 1003 | 熊本 | 天草市 | 竜ケ岳町 | 大道 | 赤崎浦 | 平家落人 | 源氏方は,天草に逃れた平氏掃討の戦いが始めた。平氏は海戦を挑んだ。源氏は,陸・海二手から攻め寄せる。第二の壇ノ浦の戦いも源氏方勝利となった。瀬戸は平氏の死体で塞がり,源氏軍は追うことができなかった。 |
| 1004 | 熊本 | 天草市 | 竜ケ岳町 | 横島 | 平家落人 | 赤崎浦の戦いで敗れた平氏ぼ武将たちは横島に上陸し,そこに住んだ。石の祠が残っている。 | |
| 1005 | 熊本 | 天草市 | 竜ケ岳町 | 大道 | 瀬戸 | 平家落人 | 雨の夜には怪火が現れる。これは,赤崎浦の戦いで死んだ平氏の亡霊である。 |
| 1006 | 熊本 | 天草市 | 竜ケ岳町 | 大道 | 瀬戸 | 平家落人 | 瀬戸を,「斬塞ぎの瀬戸」と呼ぶ。そのいわれは,ここで源氏と平氏とが戦い,死亡した平氏軍の死体によって瀬戸が塞がったからである。 |
| 1007 | 熊本 | 天草市 | 竜ケ岳町 | 大道 | 倉岳詰岩 | 平家落人 | 天草第一の高峰倉岳に巨大な岩石があり,その北面は3畳ほどの空き地になっていて巨石が屋根のように被さっている。ここは,平家が隠れ住んだ所であり,詰所の跡と言われる。 |
| 1008 | 熊本 | 天草市 | 竜ケ岳町 | 大道 | 赤崎 | 大将 | 「斬塞ぎの瀬戸」の戦いで討ち死にした平氏大将の墓が,赤崎の東側の山中にある。「とんの墓」と呼ばれている。「とん」は「殿」である。 |
| 1009 | 熊本 | 天草市 | 竜ケ岳町 | 大道 | 松ヶ鼻 | 松が姫 | 平家落人が芦北から天草島へ逃げ延びるとき,松が姫という身分の高い武将の姫が同行していた。船が大道の南方に来たときついに息絶えたので,岬に遺体をおろした。それ以来,その岬を「松ヶ鼻」と呼ぶようになった。 |
| 1010 | 熊本 | 天草郡 | 御所浦町 | 嵐口 | 梅戸 | 松依姫 | 松依姫は源氏多田蔵人行綱の娘であり,絶世の美人であった。薩摩の名護から天草まで逃れてきた。船戦となり,父の行綱とともに討死。 |
| 1011 | 熊本 | 天草郡 | 御所浦町 | 嵐口 | 梅戸 | 松依姫 | 黒田家の先祖が梅戸の山に入ったとき,渚の方で声がする。行ってみると,戸板の上に美人の首が乗っていた。鈴虫のような声で歌いだした。そこで祠を建てて祀った。 |
| 1012 | 熊本 | 天草郡 | 御所浦町 | 嵐口 | 御所浦島 | 俊寛など | 鹿谷の変により,藤原成親・俊寛・平康頼を鬼界島(硫黄島)に流した。しかし,実際に流されたのは御所浦島であった。 |
| 1013 | 熊本 | 天草郡 | 御所浦町 | 嵐口 | 瀬戸目崎 | 源行綱 | 鹿谷の変の密告により平氏に身を寄せた源行綱は,平氏残党とともに天草御所浦に逃れた。瀬戸目崎に行綱の墓が残る。 |
| 1014 | 熊本 | 天草郡 | 御所浦町 | 嵐口 | 瀬戸目崎 | 源行綱妻 | 源行綱妻は,斬塞ぎの瀬戸や赤崎の船戦で負け海に沈んだ。西の崎に流れ着いて,渚に横たわっていた。そこに碑を建てて「若宮様」と名づけ敬った。 |
| 1015 | 熊本 | 天草郡 | 御所浦町 | 横島 | 弁慶山 | 弁慶 | 弁慶山は,弁慶がこの島に来て住んだことに由来する。 |
| 1016 | 熊本 | 天草郡 | 御所浦町 | 牧島 | 長浦 | 義経 | 義経が牧島の長浦に船を隠していたので,そこを「舟隠し」という。 |
| 1017 | 熊本 | 天草郡 | 御所浦町 | 横浦島 | 与一が浦 | 那須与一 | 牧島に那須与一がやってきたので,東側の入り江を「与一が浦」と名づけた。 |
| 1018 | 熊本 | 天草郡 | 御所浦町 | 牧島 | 頼朝越え | 源頼朝 | 「与一が浦」から「横浦」へ越える峠の道を「頼朝越え」という。 |
| 1019 | 熊本 | 天草郡 | 御所浦町 | 牧島 | 弁慶山 | 弁慶 | 弁慶山の頂上には,9人の平家落人の墓がある。 |
| 1020 | 熊本 | 天草郡 | 御所浦町 | 牧島 | 長浦 | 平家落人 | 長浦の「船隠し」は,平家落人が隠れ住んだところである。 |
| 1021 | 熊本 | 天草郡 | 御所浦町 | 牧島 | 長浦 | 平家落人 | 平家落人は,山の上に見張りを置いた。その場所を,「二度出浦」と呼んでいる。 |
| 1022 | 熊本 | 天草郡 | 倉岳町 | 宮田 | 境目古墳 | 安徳天皇 | 境目国道横の丘に「鬼塚」がある。これは,平家落人の墓である。安徳天皇の墓ともいわれている。 |
| 1023 | 熊本 | 天草郡 | 倉岳町 | 宮田 | 木津原 | 源義経 | 源義経は,頼朝の勘気にふれて追討され,天草島宮田村に逃れてきた。 |
| 1024 | 熊本 | 天草郡 | 倉岳町 | 宮田 | 木津原 | 源義経 | 源義経は,3人の子供を産んだ。木津原・大宮・西の原にわけて住んだのが宮田の始まりである。 |
| 1025 | 熊本 | 天草郡 | 倉岳町 | 宮田 | 木津原 | 源義経 | 大宮田の中村家には,弁慶の文書や読み本がある。 |
| 1026 | 熊本 | 天草郡 | 倉岳町 | 宮田 | 木津原 | 弁慶 | 弁慶が住んでいたところから,金塊が出た。 |
| 1027 | 熊本 | 天草郡 | 倉岳町 | 宮田 | 木津原 | 弁慶 | 十五社宮は弁慶が再建。 |
| 1028 | 熊本 | 天草郡 | 倉岳町 | 宮田 | 木津原 | 弁慶 | 代々庄屋をつとめた中村家は,弁慶の末裔である。 |
| 1029 | 熊本 | 天草郡 | 倉岳町 | 棚底 | けさが浦 | おけさ | 平家落人の娘おけさは,タコを見つけ毎日1本ずつ鎌で切って食べていた。最後の一本は鎌を持っていかなかった。たこは,おけさを海に引き込んだ。おけさの子は,毎日母を慕って泣いていた。 |
| 1030 | 熊本 | 天草郡 | 栖本町 | 山浦 | 竜の口 | 佐藤継信 | 竜の口の佐藤家は,平家落人の佐藤継信・佐藤経信・佐藤唯信の末裔である。昔は,乗馬用の馬,さらに刀や槍を持っていた。 |
| 1031 | 熊本 | 天草郡 | 栖本町 | 浜集落 | 平家落人 | 浜集落の突端を「ドブネ」という。ここには,平家落人の墓が3〜4基畑の中に残っている。 | |
| 1032 | 熊本 | 本渡市 | 下浦町 | 須森岬 | 須森古墳 | 源行綱 | 石碑「仏神様」のたっているとこは,源行綱の居住跡である。行綱は,平氏の敗退により,この地へ逃れてきた。 |
| 1033 | 熊本 | 本渡市 | 下浦町 | 五色島 | 源行綱 | 源行綱が逃れてきた島。 | |
| 1034 | 熊本 | 本渡市 | 楠浦町 | 下浦 | 血塚島 | 源行綱 | 源行綱が,五色島から逃れてきた。源氏の追っ手と戦ったが,部下の多くは討死をした。そのため,血塚島と呼ぶようになった。 |
| 1035 | 熊本 | 本渡市 | 下浦町 | 須森岬 | 須森古墳 | 源行綱娘 | 源行綱は娘(妻?)の松依姫とともにこの地に逃れてきて,隠れ住んだ。9月20日に祭礼を執り行う。 |
| 1036 | 熊本 | 本渡市 | 下浦町 | 須森岬 | 須森古墳 | 源行綱 | 源行綱由来の剣と槍とが発掘された。剣は行方不明になった。槍は,区の青年が管理。 |
| 1037 | 熊本 | 本渡市 | 下浦町 | 須森岬 | 須森古墳 | 源行綱 | 源行綱由来の壺が発掘された。古墳を守っていた石井氏の妻が海で洗ったところ,海が血の色に変わった。 |
| 1038 | 熊本 | 本渡市 | 下浦町 | 平家場 | 平家落人 | 源平の合戦で敗れた平家落人が,舟をつけたところ。入り江に隠れて住み着いた。源氏の追っ手は,天草まで探しにきた。 | |
| 1039 | 熊本 | 本渡市 | 楠浦町 | 方原 | 方原川 | 浦上清兵衛 | 方原川の祭淵上流を開拓をしたのは,浦上氏である。今も,他氏とは違った祭礼を営んでいる。 |
| 1040 | 熊本 | 本渡市 | 宮地岳 | 長迫 | 方原川 | やんぼしさん | やんぼしさん(平家落人)が祈祷をしたり役を見たりして村人から感謝されていた。あるとき,帽子岳の麓で殺されているのが見つかった。村人は,若宮として祀った。旧5月28日が命日である。 |
| 1041 | 熊本 | 本渡市 | 楠浦町 | 方原 | 方原川 | 浦上清兵衛 | 平家落人浦上清兵衛が方原川を溯り,この地を開いた。清兵衛の墓は,今も残っている。 |
| 1042 | 熊本 | 本渡市 | 楠浦町 | 方原 | 方原川 | 浦上清兵衛 | 開祖清兵衛は「きりあけどん」と呼ばれている。方原区の「祭淵」までくると瀧淵に大蛇がいて,通ることができない。そこで,子々孫々,秋の取り入れの日にしとぎと甘酒を供えることを約束して通してもらった。 |
| 1043 | 熊本 | 本渡市 | 方原 | 方原川 | 浦上清兵衛 | 「きりあけどん」の家は,現在の浦上五平衛さんのところである。 | |
| 1044 | 熊本 | 天草郡 | 苓北町 | 木場 | 都呂呂川 | 平家落人 | 木場竹之尾の都呂呂川のほとりに,古ぼけた塚がある。これは,平家落人がここまで流れてきてなくなってきたために築いたものである。 |
| 1045 | 熊本 | 天草郡 | 苓北町 | 富岡 | 鳥越 | 弁慶 | 鳥越の畑の中に巨石がある。この石のくぼみは,弁慶の手形である。弁慶が富岡に来たときに,関取と力比べをした。関取は持ち上げることができなかったが,弁慶は右手で軽々と持ち上げた。そのときの手の跡である。 |
| 1046 | 熊本 | 牛深市 | 魚貫町 | 福津区 | 里浦湾 | 山口五郎左衛門 | 平家落人が里浦湾に逃れてきて,「隠れ屋」に上陸。そこから福津に来て住み着いた。先祖の名前は,山口五郎左衛門という。平家節が多数同行していた。 |
| 1047 | 熊本 | 牛深市 | 魚貫町 | 里浦湾 | 平家落人 | 平家落人が隠れ住んだため,里浦湾を「隠れ屋」と呼んでいる。この付近からは,古い刀や兜が発掘されたことがある。 | |
| 1048 | 熊本 | 牛深市 | 魚貫町 | 中の浦 | 平家落人 | 平家落人が舟を隠したところである。 | |
| 1049 | 熊本 | 牛深市 | 深海町 | 下平区 | 菅 | 平家落人 | 平家落人が,芦北から逃れてきた。そこを,今では「屋敷のくぼ」と呼んでいる。 |
| 1050 | 熊本 | 牛深市 | 深海町 | 下平区 | 柱が岳 | 平家落人 | 平家落人がこの山の中に逃げ込んだが,悪者のために下平に追いやられた。落人たちは,「御堂」に隠れた。そこで,この地を「水道」(みど)と呼ぶようになった。 |
| 1051 | 熊本 | 牛深市 | 深海町 | 下平区 | 平家落人 | 「水道」に追いつめられた平家落人は,追いつめられて下平の寺に隠れた。その地を,「寺の迫」と呼ぶ。 | |
| 1052 | 熊本 | 牛深市 | 深海町 | 下平区 | 平家落人 | 落人の一族は,下平から鹿児島県長島へ,剣を棄てて泳いで逃げていった。剣を棄てたところを「剣崎」という。 | |
| 1053 | 熊本 | 牛深市 | 河浦町 | 宮野 | 河内 | 三宅家 | 平家の落人が海を渡って住み着いた。そのとき,船が座礁した。「つがね」の大群が現れ,あわで船を浮かせてくれたので難を逃れることができた。それ以来,三宅家の人間は「つがね」を食べない。 |
| 1054 | 熊本 | 牛深市 | 牛深町 | 宮崎 | 涙川 | 弁慶 | 弁慶が牛若丸に敗れ牛草に辿り着いた。宮崎の岩の上で悔し涙を流した。その涙が川になったので「涙川」と呼ばれるようになった。この水を飲むと,子供は病気に罹らない。 |
| 1055 | 熊本 | 牛深市 | 牛深町 | 宮崎 | 涙川 | 弁慶 | 涙川の源流にある岩の上には,弁慶の足跡と金玉の型が残っていた。 |
| 1056 | 熊本 | 牛深市 | 二浦町 | 羊角湾 | 亀浦湾 | 平家落人 | 平家落人が隠れ住んでいた。源氏が追ってきたため,四角の箱に宝を入れて海底に沈んだ。石のそばによると,不思議な魚が寄ってきて,箱を開けることができない。 |
| 1057 | 熊本 | 牛深市 | 牛深町 | 大島 | 厳島神社 | 矢田吉左衛門 | 平家の落人の矢田吉左衛門と妻のチヨが住み着いたのが始まり。氏神は,厳島神社。 |
| 1058 | 熊本 | 宇土郡 | 郡浦 | 牧山 | 牧野大明神社 | 池月 | 佐々木高綱が頼朝から賜った名馬池月は,牧山で育った馬である。 |
| 1059 | 熊本 | 上益城郡 | 御船町 | 横野 | 玉虫御前の墓 | 玉虫 | 平重盛が肥後国を知行しているときに,横野大椽という者の娘玉虫を六波羅に召された。西海にて義経に追われたとき船の上から那須与一に扇を射るよう手招きした。玉虫は,その後ふるさとに帰り,尼となって平家一族の菩提を弔った。玉虫を祀る祠がある。 |
| 1060 | 熊本 | 上益城郡 | 御船町 | 七滝 | 七滝神社 | 平家落人 | 平家落人を祀る。 |
| 1061 | 熊本 | 上益城郡 | 北上野村 | 七越の瀧 | 平家官女 | 瀧の高さ,三十間。幅六十間。深さ三〜四間。平家没落の時,一族の官女七人がこの瀧に身を沈め,7匹の蛇に化した。紅色の華やかな衣の影が水面に映ると,たちまち雲が出て天候が荒れるといわれていた。 | |
| 1062 | 熊本 | 上益城郡 | 菅村 | 御鏡体の社 | 平重盛 | 寿永年中,平家没落の時,平重盛が大山に隠れ,寿永年中に安徳天皇が入水して後,この地に隠れ住んだ。この社は,館の跡である。江戸時代までは,重盛の碑もあった。 | |
| 1063 | 熊本 | 上益城郡 | 矢部町 | 大矢野原 | 小松の塔 | 平重盛 | 里岩に高さ0.6mの塔が立っている。この塔は、「小松の塔」と呼ばれる。文治元年(1185)頃に壇ノ浦で敗れた平家の一門がここを落ちのびていくときに、幼い姫が死んだので葬った跡という。その姫君は、平重盛の娘であった。 |
| 1064 | 熊本 | 上益城郡 | 清和村 | 緑川 | 鷲峰寺 | 安徳天皇 | 小塚山中に安徳天皇御陵と伝えられる御陵がある。石垣をめぐらした側に大きな檜ヒノキが聳え、これが陵標だと伝えられている。この陵墓の南側に天皇の菩提寺であった鷲峰寺跡があり、現在の地名はその名にちなんだものとなっている。 |
| 1065 | 熊本 | 宇土市 | 立岡町 | 安徳天皇の陵墓 | 安徳天皇 | 宮内庁管轄安徳天皇陵墓がある。 | |
| 1066 | 熊本 | 宇土市 | 立岡町 | 平資盛の墓 | 平資盛 | 平資盛の墳墓があった。堤池の傍らから掘り出された石棺に「帰入資盛」の4字が刻まれていた。 | |
| 1067 | 熊本 | 宇土市 | 立岡町 | 乳母の墓 | 乳母 | 「乳母の墓」があったが,道路の補修工事で消滅した。 | |
| 1068 | 熊本 | 荒尾市 | 樺 | 賀庭寺 | 平重盛 | 賀庭寺は,保元元年(1156)に小松内府平重盛によって天台宗比叡山の末寺として建立。往時には,四十四坊を数えた。 | |
| 1069 | 熊本 | 玉名郡 | 三加和町 | 野田 | 平家落人 | 源平の戦いに敗れた平家落人が平野山に定林寺を建てた。平野佐久佐(ひらのさくすけ)の墓が残っている。 | |
| 1070 | 熊本 | 玉名郡 | 三加和町 | 岩村 | 岩村阿蘇神社 | 荒巻大膳 | 平貞能家臣荒巻大膳が寿永2年11月(1183)に,岩村阿蘇神社を勧請。岩村には,菊池隆直が再興した田業阿蘇神社がたっており,村に二つの阿蘇神社という異例の形式になっている。菊池側の平家伝承として注目すべきか? |
| 1071 | 熊本 | 玉名郡 | 三加和町 | 岩村 | 松尾大明神 | 荒巻大膳 | 平貞能家臣荒巻大膳によって勧請された松尾大明神が勧請されている。川を隔てて岩村阿蘇神社がたっている。 |
| 1072 | 熊本 | 玉名郡 | 三加和町 | 岩村 | 宝塔 | 平朝臣景秋 | 平朝臣景秋によって,中世末期に平家由来の宝塔が建立された。「殿様の墓」もたっている(中世末?) |
| 1073 | 熊本 | 玉名郡 | 三加和町 | 板楠 | 上板楠神社 | 梶原景末 | 文治5年(1189)岡原城主梶原景末の名が刻まれた碑文がたっている。梶原景時の子景末は,板楠一族の祖である。 |
| 1074 | 熊本 | 玉名郡 | 三加和町 | 豊前街道 | 腹切り坂 | 平家落人 | この坂まで逃げ延びてきた平家落人が,ここで力つきて腹を切って果てたことから「腹切り坂」と呼ばれるようになった。 |
| 1075 | 熊本 | 玉名郡 | 三加和町 | 十町川 | 平家淵 | 平家落人 | 平家落人がこの淵に身を投じて死んだ。以来,この淵を「平家淵」と呼ぶようになった。 |
| 1076 | 熊本 | 玉名郡 | 菊水町 | 久井原 | 平家落人 | 深草一族は,平家の流れをくむ。深草義方『久井原ふかくさ物語』1979年9月,深草義方『全国深草同族会報』1984年1月。 | |
| 1077 | 熊本 | 鹿本郡 | 鹿央町 | 千田 | 聖母八幡宮 | 虎御前 | 虎御前の遺髪を納める宝篋印塔がある。 |
| 1078 | 熊本 | 鹿本郡 | 鹿本町 | 来民 | 平重盛の墓 | 平重盛 | 御宇田ミウタの実際寺ジッサイジに、法筺印塔ホウキョウイントウがある。昔、平家滅亡後に平貞能がこの地に勢力を持っていた御宇田氏を頼ってきたときに、この塔を建てて菩提を弔ったという。また、重盛の家来の大橋三左衛門がひそかに重盛の遺骨を埋めて、墓を建てたとも伝えられている。 |
| 1079 | 熊本 | 球磨郡 | 五木村 | 平家落人 | 33件の旦那衆によって構成される。旦那衆の名前は,土肥・黒木・土屋・田山・木野・梶原・緒方などでる。梶原・和田・土肥は,源氏一族の名前とされる。梶原伝説は,熊本県三加和町にもある。 | ||
| 1080 | 熊本 | 八代郡 | 泉村 | 五家荘 | 平家落人 | 久連子,椎原,仁田尾,樅木,葉木の五部落によって構成される。仁多尾と樅木は,菅原道真の後裔とされる。道真の後裔は,左座(ぞうざ)を名乗って住み着き,欄間には菅原氏の家紋,梅鉢が彫ってある。 | |
| 1081 | 熊本 | 八代郡 | 泉村 | 五家荘 | 平家落人 | 茶臼山の麓の椎原には,旦那衆の緒方氏が住んでいる。旦那の下には,御隠居・百姓頭・年寄という村の三役があった。旦那の家は,玄関付きの書院造りであった。 | |
| 1082 | 熊本 | 八代郡 | 泉村 | 五家荘 | 平家落人 | 緒方氏は,平清経の子孫である。豊前の柳浦で入水というのは実はウソであって,実は豊後に隠れ,緒方左馬助実国に頼り,その娘を妻として緒方一郎清国と称した。建長2年(1250)3月13日に,曾孫の紀四郎盛幸・三郎近盛・兵部実明の3人は源氏の捜索を避け,山賊の助けを求めながら八代郡白鳥山に隠れ住んだ。その後この3人は,それぞれ,久連子・椎原・葉木の3家に分かれた。 | |
| 1083 | 熊本 | 八代郡 | 泉村 | 五家荘 | 平家落人 | 久連子の平盛家に,由来書が伝わっている。平盛氏は,もとは緒方姓であったが明治になって改名した。由来書には,主従6人がそれぞれ二人ずつ南岳・西岳・北岳にわかれて開墾したと記されている。 | |
| 1084 | 熊本 | 八代郡 | 泉村 | 五家荘 | 胴切り坂 | 平家落人 | 肥後の菊池氏の家臣が川辺川に沿って歩いていたところ,川上から椀が流れてきた。不思議に思って川を溯ると,山中深くに焼畑を発見した。しばらく様子をうかがい,人影を見つけたので近づいたところ,清水橋付近で五家荘の者に迎え討たれた。清水橋付近に,「胴切り坂」がある。 |
| 1085 | 熊本 | 八代郡 | 泉村 | 五家荘 | 仁田尾 | 平家落人 | 仁田尾の旦那である蔵座家には,由来書が伝わっている。 |
| 1086 | 熊本 | 八代郡 | 泉村 | 五家荘 | 平家踊り | 平家落人 | 毎年七夕とお盆には,平家踊りが催される。「高い山よ 思いをかきう 思わばいゆめて 夢にも見せよ」。踊り子たちは,白い長袖に紫色の袴をはき,赤い鳥毛の笠を被る。十八になると,未婚でも歯を染めた。 |
| 1087 | 熊本 | 球磨郡 | 水上村 | 古屋敷 | 平家落人 | 人吉盆地の最奥にある「古屋敷」は,平家落人の集落である。 | |
| 1088 | 熊本 | 八代郡 | 泉村 | 白鳥山 | 平清経 | 平清盛の孫の平清経らが平家の残党とともに豊後竹田に入り,緒方三良実国の養子となった。高千穂から緑川渓谷ぞいに今の内大臣あたりを遡行。国見岳から向霧立山地の尾根伝いに南下し,白鳥山(1639m)に館を構えた | |
| 1089 | 熊本 | 八代郡 | 泉村 | 白鳥山 | 平清経 | 現在の白鳥山から500m北の御池あたりに,左中将平清経が約72年間住んだ。 | |
| 1090 | 熊本 | 八代郡 | 泉村 | 白鳥山 | 平清経 | 平重盛が所有していた「白鳥之鎗」を,三男の平清経が受け継ぎ持参したため,「白鳥山」の名がついた | |
| 1091 | 熊本 | 八代郡 | 泉村 | 白鳥山 | 平清経 | 左中将平清経は緒方市郎清国と改姓した。その曽孫にあたる緒方盛幸・近盛・実明の三見弟は,白鳥山の御池を出て,椎原・久連子・葉木にそれぞれ分住した。 | |
| 1092 | 熊本 | 木山郷 | 福原村 | 虎御前の塔 | 虎御前 | 福原山上に古い塚があった。そこに,千返帰の墓とともに虎御前の墓があった。 | |
| 1093 | 熊本 | 木原村 | 木原山 | 雁廻山 | 源為朝 | 鎮西八郎為朝が在城し飛雁を射落としたため,峰上を飛ぶ雁が乱行した。そのため,この山を雁廻山と呼ぶようになった。 | |
| 1094 | 熊本 | 木原村 | 木原山 | 六殿大明神宮 | 平重盛 | 治承年中に小松内府重盛が武州六孫王権現を勘定した。阿蘇神社の末社である。(阿蘇十二社のうち,六宮を勧請したとの説もある | |
| 1095 | 熊本 | 木原村 | 木原山 | 雁廻山海上寺 | 成経 | 治承年中に,丹波少将成経がが鬼界が島から帰洛の途中この地に逗留し,この寺を建立した。 | |
| 1096 | 熊本 | 山本郡 | 木留村 | 吉次峠 | 吉次墓 | 吉次 | 源義経を奥州に導いた金売吉次は,諸国を巡っていた。この地で強盗にあい命を落とした。その墳墓が山の上にあるため,この峠を吉次峠と呼ばれるようになった。 |
| 1097 | 熊本 | 阿蘇郡 | 蘇陽町 | 柏 | 那須与一の墓 | 那須与一 | 那須家は、余一の子孫。 墓は,高さ1.5m幅約0.9mの自然石。文字の判別はできない。 近くのお堂に、余一の愛刀「百足丸」ムカデマルが納められている |
| 1098 | 佐賀 | 佐賀市 | 嘉瀬町 | 法勝寺 | 法篋印塔 | 俊寛 | 俊寛が鬼界島から逃れて住んでいたところ。俊寛の墓がある。 |
| 1099 | 佐賀 | 佐賀市 | 嘉瀬町 | 法勝寺 | 有王・亀王 | 俊寛僧都を介抱した有王・亀王の墓は,法勝寺より東北2丁あまり先にある他の中の小高い空き地である。 | |
| 1100 | 佐賀 | 佐賀市 | 嘉瀬町 | 法勝寺 | がま | 俊寛僧都が鬼界島にいたとき楽しく暮らしていたがまは,俊寛没後悲しい声であまりにもなくので,住職が投げつけたところ,足が1本折れた。そのまま,化石になって残っている。 | |
| 1101 | 佐賀 | 佐賀市 | 嘉瀬町 | 法勝寺 | 法篋印塔 | 俊寛 | 俊寛は,治承4年3月23日に37歳でこの地で没した。 |
| 1102 | 佐賀 | 佐賀市 | 嘉瀬町 | 法勝寺 | 俊寛 | 語りをおこなう盲法師たちが集まっていた。 | |
| 1103 | 佐賀 | 佐賀市 | 嘉瀬町 | 荒木乗観入道 | 嘉瀬庄は平教盛の領地であり,荒木乗観入道が教盛の女婿の藤原成経に生活物資を送っていた。 | ||
| 1104 | 佐賀 | 佐賀市 | 嘉瀬町 | 藤原成経・平康頼 | 治承2年(1178)。藤原成経と平康頼が赦免になったとき,嘉瀬津に迎えた。 | ||
| 1105 | 佐賀 | 佐賀市 | 嘉瀬町 | 俊寛 | 藤原成経と平康頼が赦免になったとき,俊寛も一緒にやってきた。 | ||
| 1106 | 佐賀 | 鳥栖市 | 午原町 | 下尾水天宮 | 安徳天皇 | 安徳天皇と二位尼が流れてきたところ。 | |
| 1107 | 佐賀 | 鳥栖市 | 下野町 | 安徳天皇 | 安徳天皇潜幸の地。天皇の代わりに入水した人の鎮魂のために小竹祭りを催す。 | ||
| 1108 | 佐賀 | 鳥栖市 | 下野町 | 安徳天皇 | 安徳天皇と二位尼は立石儀右衛門の匿われて,肥前松山に隠れ住んだ。 | ||
| 1109 | 佐賀 | 鳥栖市 | 下野町 | 安徳天皇 | 安徳天皇は,立石儀右衛門の子息義次と共に育った。 | ||
| 1110 | 佐賀 | 鳥栖市 | 下野町 | 安徳天皇 | 安徳天皇は源氏に追われ船で逃げる。追いついた義経は,安徳天皇を逃す。 | ||
| 1111 | 佐賀 | 鳥栖市 | 下野町 | 安徳天皇 | 源氏から逃れた安徳天皇は,下野に着き記念に楠をを植えた。義次は,茶の木を植え,木と共に栄えることを祈った。 | ||
| 1112 | 佐賀 | 鳥栖市 | 下野町 | 安徳天皇 | 藤吉種継は,安徳天皇に学問を授けた。 | ||
| 1113 | 佐賀 | 鳥栖市 | 下野町 | 安徳天皇 | 安徳天皇は,藤吉種継の娘千代との間に男児を産む。 | ||
| 1114 | 佐賀 | 鳥栖市 | 下野町 | 安徳天皇 | 安徳天皇が25歳の時に発病。(28歳で天然痘説もあり) | ||
| 1115 | 佐賀 | 鳥栖市 | 下野町 | 安徳天皇 | 立石儀右衛門の頼みで5文字を書き残し,「これを守りにせよ」と言い崩御。 | ||
| 1116 | 佐賀 | 鳥栖市 | 下野町 | 水天宮 | 安徳天皇 | 安徳天皇から大宮司を世襲するよう命じられた立石忠右衛門が葬儀をを司った。 | |
| 1117 | 佐賀 | 鳥栖市 | 下野町 | 水天宮 | 安徳天皇 | 安徳天皇が崩御した次の年に二位尼が死亡した。水天宮に祀る。 | |
| 1118 | 佐賀 | 鳥栖市 | 下野町 | 安徳天皇 | 安徳天皇の残した版木と茶碗がある。 | ||
| 1119 | 佐賀 | 佐賀郡 | 大和町 | 水上山 | 万寿寺 | 安徳天皇 | 万寿寺開山の神子和尚は安徳天皇である。 |
| 1120 | 佐賀 | 佐賀郡 | 大和町 | 水上山 | 万寿寺 | 平康頼 | 万寿寺開山の神子和尚は,平康頼の子である。 |
| 1121 | 佐賀 | 佐賀郡 | 大和町 | 水上山 | 万寿寺 | 安徳天皇 | 安徳天皇と二位尼が流れてきて出家したところ。安徳天皇が入宋後に寺が建立された。 |
| 1122 | 佐賀 | 佐賀郡 | 大和町 | 水上山 | 万寿寺 | 安徳天皇 | 安徳天皇と二位尼が流れてきて出家した万寿寺には,宝剣が残っている。 |
| 1123 | 佐賀 | 佐賀郡 | 大和町 | 二位尼村 | 安徳天皇 | 二位尼村がある。 | |
| 1124 | 佐賀 | 佐賀郡 | 大和町 | 黒崎木屋瀬 | 信光・信行 | 信光・信行が安徳天皇を駕籠で背負って英彦山を越え,筑前黒崎木屋瀬(こやのせ)[北九州市八幡西区]領主山鹿左衛門藤治の館に入る。 | |
| 1125 | 佐賀 | 佐賀郡 | 大和町 | 二位尼 | 二位尼は,神爾と内侍所を天皇の身代わりとして入水。 | ||
| 1126 | 佐賀 | 佐賀郡 | 大和町 | 安徳天皇 | 安徳天皇は,川上に移り住み仁公と称した。 | ||
| 1127 | 佐賀 | 佐賀郡 | 大和町 | 安徳天皇 | 安徳天皇は42歳で崩御。川上宮に陵墓がある。 | ||
| 1128 | 佐賀 | 伊万里市 | 白野 | 石塔(重盛さん) | 平家落人 | 平家落人は,重盛さんという石塔を建てた。 | |
| 1129 | 佐賀 | 伊万里市 | 白野 | 石塔(重盛さん) | 平家落人 | 石塔を建てた平家落人は,村の創始者である。 | |
| 1130 | 佐賀 | 佐賀市 | 蓮池町 | 小松 | 小松神社 | 平家落人 | 平家落人が住み,平重盛を慕って社を建てた。現在の小松神社である。 |
| 1131 | 佐賀 | 佐賀市 | 蓮池町 | 小松 | 小松神社 | 平家落人 | 平家落人は,平重盛の霊を鎮めるため踊りを奉納した。現在の小松風流の起こりである。 |
| 1132 | 佐賀 | 三養基郡 | 基山町 | 契山 | 大興禅寺 | 平重盛 | 大興禅寺の境内に,平重盛の遺髪を埋めた古い塔が建っている。 |
| 1133 | 佐賀 | 三養基郡 | 基山町 | 契山 | 大興禅寺 | 平重盛 | 大興禅寺の付近を小松村と称した。 |
| 1134 | 佐賀 | 藤津郡 | 塩田町 | 八幡宮 | 平維盛 | 建久元年(1190・8)相模の鶴岡八幡宮を勧請。平維盛が祀られている。 | |
| 1135 | 佐賀 | 藤津郡 | 塩田町 | 久間光武 | 牛若大明神 | 平維盛 | 平維盛が乗ってきた牛が死んだのでそれを祀った。牛若大明神と称する。牛石社ともいう。 |
| 1136 | 佐賀 | 藤津郡 | 塩田町 | 中将松 | 平維盛 | 平維盛が立ち寄った松がある。中将松と称する。 | |
| 1137 | 佐賀 | 藤津郡 | 塩田町 | 立烏帽子 | 平維盛 | 平維盛が烏帽子を立ててつけていたため,「立烏帽子」という地名がついた。 | |
| 1138 | 佐賀 | 藤津郡 | 塩田町 | 下久間 | 維盛社 | 平維盛 | 平維盛が虫除けの方法を講じた。維盛社がある。 |
| 1139 | 佐賀 | 藤津郡 | 塩田町 | 常在寺 | 平敦盛の墓 | 平敦盛 | 平敦盛の供養塔である宝篋印塔がある。 |
| 1140 | 佐賀 | 杵島郡 | 山内町 | 船の原 | かんこ踊り | 平家落人 | かんこ踊りは,平家落人がはじめたものである。 |
| 1141 | 佐賀 | 東松浦郡 | 厳木町 | 安徳天皇 | 安徳天皇は,源氏への恨みを込めて力一杯に石を踏んだ。その両足の跡が残っている。 | ||
| 1142 | 佐賀 | 東松浦郡 | 厳木町 | 笠かぶりの神様 | 平家落人 | 平家落人の墓がある。笠をかぶった石塔があり,笠かぶりの神様と呼ばれている。 | |
| 1143 | 佐賀 | 武雄市 | 矢筈 | 巨石 | 平家落人 | 平家落人が隠れた大石があった。 | |
| 1144 | 佐賀 | 武雄市 | 矢筈 | 平家落人 | 平家落人が矢を作って売っていた。 | ||
| 1145 | 佐賀 | 神埼郡 | 三瀬村 | 石塔(重盛さん) | 平家落人 | 平家落人に恋人を奪われた樵が,落人を殺した。女は入水した。落人を葬ったところに石塔が残っている。 | |
| 1146 | 佐賀 | 佐賀郡 | 水上村 | 寿禅寺 | 栄尊 | 栄尊は,佐賀郡水上村寿禅寺を開山した。 | |
| 1147 | 佐賀 | 小城郡 | 小城町 | 岩蔵寺 | 虎御前 | 虎御前は,鬼王や団三郎と大経会に参詣した。虎は書写した経を,団三郎は刀を納めた。 | |
| 1148 | 佐賀 | 小城郡 | 小城町 | 岩蔵寺 | 曽我殿の腰掛石 | 虎御前 | 虎御前が参詣したとき,石の上に曽我兄弟の姿が現れ,如法経会を聴聞した。 |
| 1149 | 佐賀 | 武雄市 | 武雄町 | 八並 | 曾我兄弟供養塔 | 虎御前 | 虎御前は,武雄が源氏ゆかりの地であると知り,当地に逗留して曾我兄弟を供養するために塔を建てた。 |
| 1150 | 佐賀 | 多久市 | 東多久町 | 渋木 | 曾我兄弟の墓 | 虎御前 | 虎御前と少将が,曾我兄弟の墓を建てた。 |
| 1151 | 佐賀 | 多久市 | 東多久町 | 渋木 | 虎の清水 | 虎御前 | 曾我兄弟の墓のそばに,虎が汲んだという虎の清水がある。 |
| 1152 | 佐賀 | 多久市 | 東多久町 | 渋木 | 虎の腰掛岩 | 虎御前 | 曾我兄弟の墓のそばに,虎御前の腰掛け岩があった。 |
| 1153 | 長崎 | 長崎市 | 伊王島町 | 俊寛 | 成経・康頼・俊寛は伊王島に流された。成経・康頼が帰郷するとき,俊寛は大きな岩の上で足摺りをして泣き叫んだ。 | ||
| 1154 | 長崎 | 長崎市 | 伊王島町 | 康頼舞台石 | 平康頼 | 平康頼が,洞ゲ岳山頂の岩殿恵美須を望みながら[馴子舞]を舞った。これに因んで康頼舞台石の名がおこった。 | |
| 1155 | 長崎 | 長崎市 | 伊王島町 | 武庫山 | 1本松 | 俊寛 | 俊寛墓碑が立っている。俊寛を尋ねて有王丸がた訪れた。俊寛は嘆きつつも,ついに断食して死亡。有王丸は,菩提を弔うために1本の松を植えた。 |
| 1156 | 長崎 | 長崎市 | 伊王島町 | 武庫山 | 俊寛 | 治承元年(1177)5月,俊寛・康頼・成経は肥前の嘉瀬庄についた。そこから,伊王島へ送られてきた。 | |
| 1157 | 長崎 | 長崎市 | 伊王島町 | 武庫山 | 熊野権現 | 俊寛 | 康頼と成経は熊野権現の祠をつくり参詣した。 |
| 1158 | 長崎 | 長崎市 | 伊王島町 | 武庫山 | 俊寛 | 嘉瀬庄から荒木乗観が食物を持ってやってきた。 | |
| 1159 | 長崎 | 長崎市 | 伊王島町 | 武庫山 | 俊寛 | 安徳天皇の安産祈願のため,流人を都へ帰す命令が届いた。しかし,俊寛は島に残された。 | |
| 1160 | 長崎 | 長崎市 | 伊王島町 | 武庫山 | 俊寛 | 成経・康頼が帰京後数年を経て有王が俊寛を迎えに来た。しかし,俊寛は伊王島で亡くなった。 | |
| 1161 | 長崎 | 長崎市 | 伊王島町 | 武庫山 | 俊寛の墓 | 俊寛 | 有王は,俊寛を葬り1本の松を植えた。俊寛の墓は,伊王島小学校の運動場になっている。 |
| 1162 | 長崎 | 島原市 | 深江町 | 安徳 | 安徳神社 | 安徳天皇 | 安徳天皇の冠が流れ着く。安徳神社に祀る。寛政4年の普賢岳噴火で土砂に埋まった。大正時代初期に再建。昭和60年に安徳天皇800年祭を催し,現在は鯉のぼりで賑わうことで知られている。 |
| 1163 | 長崎 | 南高来郡 | 国見町 | 筏 | 安徳天皇陵 | 安徳天皇 | 安徳天皇の陵墓がある。「八つの王」と呼ばれている。 |
| 1164 | 長崎 | 南高来郡 | 国見町 | 筏 | 乳母が塚 | 乳母 | 乳母の塚がある。 |
| 1165 | 長崎 | 南高来郡 | 国見町 | 筏 | 安徳天皇 | 安徳天皇が筏で流れ着いたため,「筏」という地名がついた。 | |
| 1166 | 長崎 | 南高来郡 | 国見町 | 神代東里筏 | 袖引坂 | 平家落人 | 平家落人が長い袖を引きながら往来したため「袖引坂」と名づけられた。 |
| 1167 | 長崎 | 南高来郡 | 口之津町 | 平家落人 | 大屋名の「平」「多平良」の姓は,平家の末流であるとされる。 | ||
| 1168 | 長崎 | 南高来郡 | 深江町 | 山の寺 | 平家集落 | 平家落人 | 深江町山の寺は,平家落人の集落である。 |
| 1169 | 長崎 | 南高来郡 | 深江町 | 権現脇 | 門脇神社 | 平教盛 | 島原市安徳から逃れてきた平教盛を祀る。 |
| 1170 | 長崎 | 諫早市 | 有喜 | 安徳天皇 | 島原市安徳から,安徳天皇は雲仙を越えて南串山町京泊を経て有喜に着いた。 | ||
| 1171 | 長崎 | 諫早市 | 有喜 | 安徳天皇 | 有喜の山で安徳天皇が崖から落ちた。そのときに,血に染まった岩がある。 | ||
| 1172 | 長崎 | 諫早市 | 小川町 | 女乙木 | 二位尼の森 | 二位尼 | 二位尼の森の木を切ると祟りがある。 |
| 1173 | 長崎 | 諫早市 | 小川町 | 女乙木 | 安徳天皇碑 | 安徳天皇 | 平家落人の里がある。山の頂上に「安徳天」と刻まれた碑がある。昔,この地に安徳天皇が隠れ住んだが,源氏に見つかり不運な最期を遂げた。里の人たちは天皇の崩御を悲しみ,手厚く葬り,石碑を建てた。 |
| 1174 | 長崎 | 諫早市 | 香田 | 墓石 | 安徳天皇 | 「安徳さん」と呼ばれる墓石がある。 | |
| 1175 | 長崎 | 諫早市 | 鷲崎 | 平家落人 | 6人の平家落人が住んだ。 | ||
| 1176 | 長崎 | 北松浦郡 | 吉井町 | 直谷川 | 御手水川 | 安徳天皇 | 安徳天皇がここで手を洗った。 |
| 1177 | 長崎 | 北松浦郡 | 吉井町 | 直谷川 | 朕の淵 | 安徳天皇 | 内裏山のそばを流れる直谷川で,安徳天皇が水を汲んだ。そこを,「朕が淵」と呼ぶ。 |
| 1178 | 長崎 | 北松浦郡 | 吉井町 | 草の尾 | 平家落人 | 平家落人が住んだ。京訛りで話す。 | |
| 1179 | 長崎 | 北松浦郡 | 宇久町 | 飯良郷 | 平家盛 | 平家盛上陸の地。助けた海人に領海権を与えた。島一帯を支配。 | |
| 1180 | 長崎 | 北松浦郡 | 宇久町 | 飯良郷 | 八幡宮 | 平家盛 | この地に上陸した平家盛によって,領海権を与えられた海人が八幡宮を建てた。 |
| 1181 | 長崎 | 北松浦郡 | 宇久町 | 上浦西泊 | 平家盛 | 平家盛が上陸。助けた戸衛門に中村の姓を与えた。 | |
| 1182 | 長崎 | 北松浦郡 | 宇久町 | 上浦西泊 | 火焚崎 | 平家盛 | 平家盛が上陸したところを「火焚崎」と呼ぶ。 |
| 1183 | 長崎 | 北松浦郡 | 宇久町 | 上浦西泊 | 船隠 | 平家盛 | 平家盛りが上陸するときに船を隠したところを「船隠」という。 |
| 1184 | 長崎 | 北松浦郡 | 宇久町 | 上浦西泊 | 城 | 平家盛 | 平家盛は,山本に城を築いて住んだ。 |
| 1185 | 長崎 | 北松浦郡 | 鹿町 | 歌が浦 | 船の村 | 平家落人 | 平家落人が歌が浦に上陸し,そこに住んだ。「船の村」と名づけた。 |
| 1186 | 長崎 | 下県郡 | 厳原町 | 久根田舎 | 安徳天皇 | 安徳天皇は,福岡県甘木市黒川で成長。その後,長崎県北松浦郡吉井町直谷城で成人した。 | |
| 1187 | 長崎 | 下県郡 | 厳原町 | 久根田舎 | 安徳天皇 | 吉井町直谷城で成人した安徳天皇は島津氏の女と結婚した。重尚・助国が生まれた。 | |
| 1188 | 長崎 | 下県郡 | 厳原町 | 久根田舎 | 安徳天皇 | 安徳天皇は島津家息女を娶った。その後,惟家・重尚(シゲノブ)が生まれ,ふたりは,斎藤帯刀(タテワキ)ら二百余騎を率いて,寛元4年(1246)に対馬の阿比留(アビル)国信を亡ぼして地頭となった。対馬宗家は,惟宗の後裔である。 | |
| 1189 | 長崎 | 下県郡 | 厳原町 | 久根田舎 | 内院 | 安徳天皇 | 安徳天皇御陵伝説地のそばに,「内院」という地名がある。 |
| 1190 | 長崎 | 下県郡 | 厳原町 | 久根田舎 | 安徳天皇 | 安徳天皇と島津氏の女と結婚して生まれた重尚は対馬に渡った。その後,安徳天皇を迎え入れ,久根田舎に住んだ。安徳天皇は74歳で崩御。 | |
| 1191 | 長崎 | 下県郡 | 厳原町 | 久根田舎 | 安徳天皇陵墓 | 安徳天皇 | 安徳天皇の陵墓がある。享和年間(1801〜1803)に久根田舎で石郭が出た。中には,銅器や鉄器があった。明治16年4月5比に御陵墓見込地と定められ,明治43年に御陵墓伝説地,昭和2年6月に御陵墓参考地に改められた。 |
| 1192 | 長崎 | 下県郡 | 厳原町 | 久根田舎 | 納言殿塚 | 平家落人 | 納言殿塚は,安徳天皇に奉仕した人々の塚だといわれている。 |
| 1193 | 長崎 | 下県郡 | 厳原町 | 久根田舎 | 犬塚 | 安徳天皇 | 安徳天皇に由来する犬塚がある。 |
| 1194 | 長崎 | 下県郡 | 厳原町 | 久根田舎 | 馬塚 | 安徳天皇 | 安徳天皇に由来する馬塚がある。 |
| 1195 | 長崎 | 下県郡 | 厳原町 | 豆酢 | 隠山 | 安徳天皇 | 安徳天皇が一時隠れた山を「隠山」(かぐすやま)という。 |
| 1196 | 長崎 | 下県郡 | 厳原町 | 豆酢 | 皇の子 | 安徳天皇 | 安徳天皇が隠山から久根田に移るとき大きな三角岩の下で潮待ちをした。その岩を「皇の子」(こうのこ)という。 |
| 1197 | 長崎 | 下県郡 | 厳原町 | 久田 | 安徳天皇の墓 | 安徳天皇 | 採山森中に五輪塔があり,安徳天皇の墓と伝えられる。 |
| 1198 | 長崎 | 下県郡 | 厳原町 | 久田 | 従臣の墓 | 平家落人 | 安徳天皇の墓と伝えられる採山の五輪塔近くに,従臣たちの墓がある。 |
| 1199 | 長崎 | 下県郡 | 厳原町 | 厳原 | 八幡宮天神社 | 安徳天皇 | 八幡宮境内の天神社は安徳天皇を祀る。 |
| 1200 | 長崎 | 下県郡 | 厳原町 | 内山 | 重尚 | 安徳天皇の長子重尚が住んだ。 | |
| 1201 | 長崎 | 下県郡 | 豊玉町 | 二位 | 平知宗 | 平知宗の五世の孫が来て,この地を治めた。館跡がある。 | |
| 1202 | 長崎 | 上県郡 | 上県町 | 平家塚 | 平家塚がある。 | ||
| 1203 | 長崎 | 対馬 | 安徳天皇 | 安徳天皇の子供7人が対馬を治めた。 | |||
| 1204 | 長崎 | 西彼杵郡 | 野母崎町 | 高浜村 | 三浦能仲 | 落人の三浦能仲が殿ケ倉山に来て城山に城を築いた。高浜村の開祖である。 | |
| 1205 | 長崎 | 西彼杵郡 | 大瀬戸町 | 平村 | 平家落人 | 平村。平家ゆかりのものが開いた。 | |
| 1206 | 長崎 | 西彼杵郡 | 大瀬戸町 | 平重盛 | 平重盛が山中に隠れ住んだ。鍋や釜の形の石がある。 | ||
| 1207 | 長崎 | 西彼杵郡 | 大瀬戸町 | 小松 | 平重盛 | 平重盛の館があったため,郷の名を「小松」という。 | |
| 1208 | 長崎 | 西彼杵郡 | 大瀬戸町 | 平知盛 | 平家塚がある。平知盛の墓といわれる。 | ||
| 1209 | 長崎 | 西彼杵郡 | 大瀬戸町 | 下郷 | 平家塚 | 平家塚がある。「すみよし様」と呼ばれている。 | |
| 1210 | 長崎 | 長崎市 | 三重町 | 樫山郷 | 知盛塚 | 平知盛 | 平知盛の首塚とされる古墳がある。 |
| 1211 | 長崎 | 長崎市 | 館 | 平家落人 | 平家落人が住んだ。 | ||
| 1212 | 長崎 | 福江市 | 六方 | 平家盛 | 平家盛とその家来が上陸した。約束を破り里人が源氏に密告したため,家盛たちは自害した。里の家は6軒より増えない。 | ||
| 1213 | 長崎 | 福江市 | 六方 | 平家塚 | 平家落人 | 平家塚がある。 | |
| 1214 | 長崎 | 南松浦郡 | 奈良尾町 | 平家落人 | 吉川信四郎の祖は,平家落人である。 | ||
| 1215 | 長崎 | 南松浦郡 | 奈留町 | 三本松 | 平家塚 | 平家落人 | 平家落人を祀った平家塚がある。掘ると祟ったため,祠を建てて祀った。 |
| 1216 | 長崎 | 南松浦郡 | 奈留町 | 泊郷 | 平家塚 | 平家落人 | 平家塚がある。「どやま」と呼ぶ。 |
| 1217 | 長崎 | 南松浦郡 | 奈留町 | 大串郷 | 池塚 | 平家落人 | 大串郷の西江上のは,平家の三姉妹「とよ姫」「つる姫」「さよ姫」を祀る。 |
| 1218 | 長崎 | 南松浦郡 | 奈留町 | 椿原 | 平家塚 | 平家落人 | 平家塚がある。 |
| 1219 | 長崎 | 南松浦郡 | 若松町 | 榊浦 | 三年が浦 | 平家落人 | 白い犬をつれた平家落人が4人来て,3年の間,榊浦に隠れ住んだ。その地を「三年ケ浦」と名づけられた。 |
| 1220 | 長崎 | 南松浦郡 | 若松町 | 竜音竜尊塚 | 平家落人 | 三年が浦に隠れていた平家落人は,犬が吠えたため追っ手の源氏に見つかり自刃した。埋葬したところを掘ると祟った。竜音竜尊塚に祀る。 | |
| 1221 | 長崎 | 南松浦郡 | 若松町 | 間伏後浜 | 草履懸けの松 | 平家落人 | 平家落人がこの松に草履を懸け,衣を頭に乗せて泳いで逃げた。そこで,この松を「草履懸けの松」と称するようになった。若松町の榊ノ浦三年が浦の谷間に隠れた。 |
| 1222 | 長崎 | 南松浦郡 | 奈留町 | 江上 | 平家落人 | 平家落人が夏井に上陸。大串を開いた。 | |
| 1223 | 長崎 | 南松浦郡 | 岐宿町 | 平家落人 | 平家落人の射た矢が竹林になった。 | ||
| 1224 | 長崎 | 佐世保市 | 横手 | 心野免 | カクヒ岳 | 平家落人 | 平家落人が隠れた洞窟がある。 |
| 1225 | 大分 | 速見郡 | 山香町 | 西中尾 | 八幡宮 | 小松光盛 | 小松光盛が宇佐八幡宮から勧請した八幡宮がある。 |
| 1226 | 大分 | 東国東郡 | 国東町 | 八郎 | 遺臣八郎が僧になり,平家の追善供養をした。 | ||
| 1227 | 大分 | 東国東郡 | 国東町 | 向田 | 粟嶋神社 | 平清盛娘 | 向田の小迫海岸に,平清盛の7人の娘の内のひとりが舟の乗って流されてきた。この娘は,婦人病にかかって,ふためと見られぬ婦人病に罹っていた。娘は死ぬ前に,腰から下の病を救う神となることを誓った。この小舟を壊した石が男根に似ていたところから,亀頭にあたるところを上にして,5寸の大きさの穴を掘って姫の魂安座の場とした。それが,現在の粟嶋神社である。 |
| 1228 | 大分 | 東国東郡 | 国東町 | 府殿 | 平宗盛 | 平宗盛が住んでいた。 | |
| 1229 | 大分 | 東国東郡 | 国東町 | 長房 | 平長房 | 平長房が住んでいた。 | |
| 1230 | 大分 | 西国東郡 | 真玉町 | 松ケ平 | 大明神 | 平家落人 | 平家落人の妻が持っていた石棒を大明神として祀る。 |
| 1231 | 大分 | 杵築市 | 馬々尾本村 | 談合堂 | 平家落人 | 平家落人が談合した小堂がある。談合堂と呼ばれている。 | |
| 1232 | 大分 | 宇佐市 | 森山 | 安徳天皇 | 安徳天皇が住んだ宇佐大宮司公通の館があった。 | ||
| 1233 | 大分 | 宇佐市 | 長洲 | お池様 | 安徳天皇 | 安徳天皇が上陸して休んだところ。池の側の祠に天皇を祀る。 | |
| 1234 | 大分 | 宇佐市 | 金屋 | 御馬様の池 | 安徳天皇 | 安徳天皇が宇佐に行幸したとき,神馬を清めた池を「御馬様の池」という。 | |
| 1235 | 大分 | 宇佐市 | 高田街道 | 安徳天皇 | |||
| 1236 | 大分 | 宇佐市 | 柳ヶ浦 | 小松浦 | 清経の墓 | 平清経 | 平清経が入水した浦を,「小松浦」という。清経の墓がある。 |
| 1237 | 大分 | 宇佐市 | 明治村 | 筌の口実盛 | 烏帽子山 | 平実盛 | 平実盛は,烏帽子山に潜行。この地で果てた。実盛の墓がある。 |
| 1238 | 大分 | 宇佐郡 | 安心院町 | 徳頼 | 平家落人 | 平家落人の集落がある。 | |
| 1239 | 大分 | 宇佐郡 | 院内町 | 平原 | 平家落人 | 平家落人2人が,源氏に追われて逃げてきた。1人は,一本松の山頂に立って割腹した。そして,追手の源氏武将に向かって自分の臓物を投げつけた。その一部が引っかかり,「臓懸の松」と呼ばれるようになった。 | |
| 1240 | 大分 | 宇佐郡 | 長峰 | 清水寺 | 平重盛 | 平重盛の墓がある。 | |
| 1241 | 大分 | 宇佐郡 | 芝原 | 善光寺 | 平重盛 | 平重盛の墓がある。 | |
| 1242 | 大分 | 宇佐郡 | 天津 | 広瀬神社 | 平重盛 | 平重盛の墓がある。 | |
| 1243 | 大分 | 下毛郡 | 耶馬溪町 | 耶馬溪 | 羅漢寺 | 平重盛 | 平重盛の墓がある。 |
| 1244 | 大分 | 下毛郡 | 秣 | 長谷寺 | 平重盛 | 平重盛の墓がある。 | |
| 1245 | 大分 | 下毛郡 | 耶馬溪町 | 家籠 | 山国川 | 平家落人 | 宇佐市高家(たかい)や下庄布津部の浜に上陸した平家落人は,今津から犬丸川を溯り山国川流域に出て城井一族の庇護を受ける。 |
| 1246 | 大分 | 下毛郡 | 耶馬溪町 | 家籠 | 平家落人 | 山国川から柿坂を越えて山移川を経て,家籠(えごもり)に到着。ここに,長らく住み着いた。 | |
| 1247 | 大分 | 下毛郡 | 耶馬溪町 | 家籠 | もうらくの坂 | 平家落人 | 平家落人が家籠に着く前の坂を,「もうらくの坂」という。いまは,「もうだくの坂」と言われる。 |
| 1248 | 大分 | 下毛郡 | 耶馬溪町 | 宮園 | 八幡神社 | 河童 | 平家残党の霊が河童になって害をなすので,楽を始めた。→大分県玖珠郡玖珠町下横尾亀都起神社(『日本伝説体系』13巻北九州編p.146)にも,音楽を奏して平家の霊を慰撫した伝承がある。 |
| 1249 | 大分 | 下毛郡 | 山国町 | 河童 | 筑後川に入水し河童になった平氏の霊を慰めるために始められた楽が,玖珠郡古後から伝わった。白地楽という。 | ||
| 1250 | 大分 | 中津市 | 奥平 | 河童 | 平氏の霊が河童になり,女に憑いて生まれ変わろうとした。海門和尚が仏縁を結ばせわび証文を書かせた。 | ||
| 1251 | 大分 | 中津市 | 藤田 | 平知盛 | 平知盛の墓の上に家を建てた家族に三代盲人が生まれた。 | ||
| 1252 | 大分 | 日田郡 | 前津江村 | 弥太郎屋敷 | 弥太郎 | 落人弥太郎が騙されて殺された。 | |
| 1253 | 大分 | 日田郡 | 前津江村 | 弥太郎淵 | 弥太郎 | 落人弥太郎が騙されて殺された。 | |
| 1254 | 大分 | 日田郡 | 前津江村 | 弥太郎塚 | 弥太郎 | 落人弥太郎が騙されて殺された。 | |
| 1255 | 大分 | 日田郡 | 天瀬町 | 湯山 | はなだはんすけの墓 | はなだはんすけ | 落人はなだはんすけの墓がある。平家屋敷,平家井川(いご)がある。 |
| 1256 | 大分 | 日田郡 | 天瀬町 | カクインザン | 平家落人 | 平家落人が住んだ。鏡・臼・ | |
| 1257 | 大分 | 玖珠郡 | 玖珠町 | マクナギ | 平家落人 | 平家落人が幕を張ったため生まれた地名。 | |
| 1258 | 大分 | 玖珠郡 | 玖珠町 | 亀都起神社 | 平家落人 | 筑後国楽人から音楽の秘術を記した巻物を授けられた農民が村の者にこれを習わせ,その子孫の筒井六衛門尉春行が,玖珠郡の岩室村に住み童子に伝えた。 | |
| 1259 | 大分 | 玖珠郡 | 九重町 | 平家山 | 平家落人 | 源氏と平氏とは,この山で手を握り一緒に帰農した。しかし,互いに氏だけは忘れないようにと,小正月の朝の粥に,源氏は餅を入れた白粥,平家の子孫は小豆の赤粥を作っている。 | |
| 1260 | 大分 | 玖珠郡 | 九重町 | 平家山 | 平家落人 | 多くの平家落人が住み着いた。帰洛の望みが果たせないため,その妄執によって猿に生まれ変わった。享保のころまで,平家百匹といわれるほど多かったが,作物を荒らすので猟師が87匹を殺した。その中の一匹は,朱が剥げ落ちた朱鞘の刀を持っていた。 | |
| 1261 | 大分 | 玖珠郡 | 九重町 | 松木宝山 | 平家落人 | 平家落人が住み,軍資金を隠した。 | |
| 1262 | 大分 | 玖珠郡 | 九重町 | 平家落人 | 平家落人が開いた平家谷がある。 | ||
| 1263 | 大分 | 大分郡 | 湯布院町 | 野稲岳 | 立石の池 | 平家落人 | 平家残党が討たれ,立石の池の水が赤く染まった。 |
| 1264 | 大分 | 大分郡 | 庄内町 | 阿蘇野黒嶽 | かくし水 | 平家落人 | 平家落人が黒嶽に隠れ住んだ。白拍子もつれていた。 |
| 1265 | 大分 | 大分郡 | 庄内町 | 阿蘇野黒嶽 | 白拍子 | 平家落人 | 平家落人が白拍子を連れてきていたため,「白拍子」の地名がつけられた。 |
| 1266 | 大分 | 大分郡 | 庄内町 | 阿蘇野 | 上臈石 | 平家落人 | 平家落人を追ってきた上臈が自殺した。遺体は石になり「上臈石」と呼ばれた。 |
| 1267 | 大分 | 大分郡 | 庄内町 | 阿蘇野 | 小松池 | 平家落人 | 上臈石のそばにある池を「小松池」と呼ぶ。 |
| 1268 | 大分 | 直入郡 | 久住町 | 黒嶽 | 女郎石 | 平家落人 | 黒嶽の麓に「女郎石」があり,そばに祠が建っている。平家滅亡の時,ひとりの上臈(身分の高い女性)がこの村に逃れてきたが,捕らえられ責め殺され,その怨みで石に化した。この石にさわると大雨が降る。この伝承とよく似たプロットは,熊本県通潤橋のそばにある。[京都から平家公達を追ってきた女臈がやってきたが,平家公達がすでに谷の向こうに去ったと聞いて石に化した。]多くの岩の中に祠が建っている。 |
| 1269 | 大分 | 直入郡 | 萩町 | 神原 | 平家落人 | 平家落人が住んでいた。 | |
| 1270 | 大分 | 大野郡 | 三重町 | 内田 | 平家女性 | 平家の女官9人が,内田の部落に逃れてきた。官女たちに一夜の宿を貸した夫婦は,関わり合いになるのを恐れ,「源氏の追っ手がすぐそこまで来ている」と告げた。女官たちは疲れ果てていたため,井戸の中に身を投じて死んだ。それから,毎夜,井戸から光るものが南を指して飛んでいった。夫婦は,気が狂って井戸に身投げをした。9人の女官と夫婦を,「吉井明神」として祀った。 | |
| 1271 | 大分 | 南海部郡 | 直川村 | 横川 | 子鹿の木様 | 平家落人 | 平家落人が挿した杖が大木になった。子鹿の木様と呼ばれ,触ると祟る。 |
| 1272 | 大分 | 南海部郡 | 直川村 | 横川 | 子鹿の木様 | 平家落人 | 子鹿の木様の横に落人を葬った。 |
| 1273 | 大分 | 南海部郡 | 直川村 | 上直見 | 宮ノ下 | 平光世・光国 | 緒方惟栄が平家の軍勢を急襲したとき,惟栄の手を逃れて平光世・光国兄弟が佐伯の庄に逃げてきた。 |
| 1274 | 大分 | 南海部郡 | 直川村 | 尚海 | 平光世・光国 | 平光世・光国が逃げてきたとき,蕎麦の花が咲いているのを見て,「尚,海なるや」と尋ねた。そこで,この地を「尚海」(なおうみ)と呼ぶようになった。 | |
| 1275 | 大分 | 南海部郡 | 直川村 | 厳島神社 | 平光世・光国 | 村人たちが平光世・光国の矢を射る。光世は,肘を打ち抜かれ森の中に隠れた。その夜,二人の夢に厳島三柱の大神が現れた。そこで,ふたりは,厳島神社を勧請したところ,肘の痛みはたちどころに消えた。 | |
| 1276 | 大分 | 南海部郡 | 直川村 | かくれ場 | 平光世・光国 | 平光世・光国は,深山に身を潜める。そこを「かくれ場」と称した。 | |
| 1277 | 大分 | 南海部郡 | 直川村 | 因尾 | 平光世・光国 | 平光世・国光は,牛の背にまたがって世利山を越え,因尾の里に落ち延びた。 | |
| 1278 | 大分 | 南海部郡 | 直川村 | 因尾 | 平光世・光国 | 平光世・光国は,緒方惟栄に捕らえられ,悲惨な最期を遂げた。二人は,その後,怒霊となったため里人は「三寵江」「前高」の両社に祀った。 | |
| 1279 | 大分 | 南海部郡 | 直川村 | 肘切神社 | 平光世・光国 | 三柱厳島神社の神を恐れかしこみつつ,社殿を建立し,肘切神社として崇め奉った。 | |
| 1280 | 大分 | 臼杵市 | 平家落人 | 平家落人で「シャ」という者が住んでいる。都を落ちるとき結び飯を作る暇もなく布袋にいれ「シャ行こう」といって出発した。そのため,「シャ」と呼ばれるようになった。頭上運搬の習慣が残っている。源氏に追われたとき,頭に荷物を載せて川 |