平家 に関連するホームページ
赤間神宮
なんと言っても、平家関係ではここがメッカ。
元来、阿弥陀寺と称されていたが、明治になって改称。
彦島
平家の彦島・宮本武蔵の巌流島とは、同じ島!
幕末に英国が租借を申し入れてきたが、高杉晋作が断固拒絶。
日本の「香港」になっていた可能性もあった!
五木の文化
岩戸の六地蔵などの画像を掲載
五家荘
五家荘緒方家の写真などを掲載
文治元年、壇ノ浦に破れた平家の一族は日向より由布院を経て、山賊の案内にて白鳥山に入った。
源氏の追討を逃れた左中平清経は姓を緒方と改名。
その子孫緒方紀四郎盛行がこの地に住みつき代々椎原を支配した
注:五家荘にも、高田町と同じく「平」という地名がある!
保口若宮神社に関する資料
<伝説と由緒>
創立年代は、室町時代の初期、応永年間(一四00年、五八六年前)創立されたと伝えられる。
始め、鬼山御前、若宮神、健磐龍命を祀りたるも、
阿蘇家の支配下になりたる時代、天満宮(菅原道真公)を合祀されたという。
伝説によると鬼山御前は、もと平家の官女で、弟久茂と岩奥に住みついていたが
、平家追討の第二陣、那須与市の嫡男は岩奥を通過し保口に達したその時、
鬼山御前も後を追い、保口に共同生活する内、
夫婦となり保口で一生を終わったという。
肥後国誌に日く「源平合戦の際那須与市の一族に鬼山御前と称する女当地に在住云々」
とあり、平家の官女が源氏姓になったという。現在保口の那須姓は与市の子孫と伝えられる。
[平家一族の栄枯盛衰]--九州における平家--
朝日百科『日本の歴史』4中世1参照
平氏知行国(治承三年):平家落人の里と重なる
筑前・薩摩
平氏荘園
筑後(三瀦荘・三原荘・堺別符?) 家人1(三毛郡三毛郷の美気敦種)
肥前(神崎荘・牛島荘・加瀬荘・杵島郡・晴気領)
家人2(松浦党の松浦重俊・神崎荘の海六重実)
肥後(臼間荘・山本荘・守富荘・八代荘・人吉荘・多良木荘・西村・永吉・)
家人1(菊池高直・胤益)
薩摩9 家人3
大隅1 家人1
日向5 家人0
豊後0 家人7(緒方維義ら)
豊前1 家人1
筑前6 家人5(山鹿秀遠・原田種直ら)
平家一族の繁栄期は、宋-高麗-日本を結ぶ東アジア貿易圏が成立した時期と重なっている。
九州に拠点を築いた平家は、貿易によって巨万の富を蓄積し、旧勢力である貴族たちを圧倒することができた。
博多地区から11世紀後半から12世紀前半にかけて、中国産の大量の白磁類が発掘されている。
11世紀末にはすでに博多筥崎ハコザキ付近には多数の中国人が在留。
12世紀には、相当の都市が形成され、船団を組み宋や高麗と貿易していた。
中国江南地方、とくに明州(現在の寧波ニンポー)出身者が多数いた。
彼らは、「博多百堂」「宋人百堂」という堂舎を建立。禅宗寺院聖福寺はその跡に建立された。
平清盛時代は、高麗が政治的不安定期にあたり、宋との貿易が盛んだった。
肥前国神崎荘で交易をする不便を解消するために、宋の商船を、
北九州-瀬戸内海-大和田泊まで招き入れることを目的として。
嘉応2年(1170)には、到着した宋人を後白河上皇とともに福原の山荘で引見。
承安2年(1172)には、宋の皇帝から上皇と清盛宛に国書や中国産の物品が送られてきたのに対し、
公式の返書や答礼を行い、これを機に公的な「開国」となった。
清盛は「唐船」と呼ばれた宋の商船を何隻も保有し、
上皇や貴族が厳島に参詣するときには大和田泊からこの船で送迎した。
この「唐船」は軍事にも用いられ、壇ノ浦合戦にも多くの「唐船」が使用された。
(大牟田に「唐船」の地名あり。地名の由来は、不明。
あるいは、外国航路に使用された「唐船」ゆかりの地?)
参考<平家と海上貿易>
平清盛は、日本における海上交通の発達に大きな影響を及ぼしている。
主として中世以降、いわゆる「港町」が発達。
瀬戸内海の大和田泊(兵庫)や、外交貿易港として奈津(博多)などが有名。
「三津」サンシン:坊津ボウノツ(薩摩)琉球船明船で賑わう
・奈津(博多)・安濃津アノツ(伊勢、現在の三重県津市)。
瀬戸内海の港は、赤間関・尾道・兵庫大和田泊・堺。
壇ノ浦の合戦で敗北した平家軍
(1)水路を辿って九州の平家ゆかりの港に逃げ込む。
女官はじめ、非戦闘員を伴っての逃避行であるから、陸路(険しい裏道)を避けた?
港町に住んだ平家末裔は、しだいに拡散するが、
例外として、柳川市六騎や鹿児島県出水市に集落が残る?
(2)陸路を辿って山中に住みついた一族は、交流も少なく血が保たれたか?
壇ノ浦の合戦後、源義経は平家残党の討伐に熱心ではなかった。
平家残党の討伐は、源頼朝の弟である源範頼によって進められた。
平家残党は、一時大宰府へ安徳天皇を伴って逃避した際、
「大津山の関」を閉められれて再度瀬戸内海へと戻っていった折にも発生したか?
(大勢が船上で暮らすこと自体、かなりの無理を生ずる。)
壇ノ浦合戦で全滅したわけではない。山川町の要川で戦いをする勢力は残存。
しかし、さらに、平家の復興を願って各所に散在し財力を蓄えた集団もあったか?
そもそも、各地域の豪族たちが平家側に着いたのも「利益」確保のためであるから、
負けとわかれば地元に引き上げそのまま暮らした? そのために、各所に伝承が残る?
[平家主要人物紹介]
平忠盛(1096/1153)
清盛の父。(ただし、白河上皇の落胤?)
白河・鳥羽両上皇に仕え、武士として最初の昇殿を許された。
山陽・南海道の海賊を討つ。
平清盛(1118/1181)
伝説:白河上皇の落胤?(「平家物語」巻六 祇園女御)
12歳で従五位下左兵衛佐。
保延三年1137中務大輔。
同年、兼肥後守(20歳で中央の次官と熊本県知事を兼任)
久安2年1146までの9年間、肥後守。次に安芸守・播磨守に転ずる。
仁平3年1153平氏棟梁。
保元3年1158太宰大弐(注:「大弐」大宰府の次官三人中の最上位者の官名。)
大宰府は、「遠の朝廷ミカド」と呼ばれ、九州の九国を統括。
大陸外交・海岸防備の拠点。九州を統括する。
保元元年1156 保元の乱
(後白河天皇、清盛、源義朝//崇徳上皇義朝の父為義と弟の為朝)
see:「九州の為朝伝説」
平治元年1159平治の乱 (平清盛//源義朝)
1166大弐平頼盛は、それまで任命されても赴任しないのが通例であったが、現地に赴任。
平氏の家人でもあった宇佐大宮司交通を実質的な責任者である少弐に任命。
大宰府の在庁官人を平家で固めた。(目的は、日宋貿易)
仁安2年1167 平清盛太政大臣
各地に大功田を賜る。肥後国八代も、このとき与えられた。
球磨は、一族に与えられた。
平氏一門の領国は、33/66(全日本の領国)。
荘園は、500ケ所以上。
仁安3年病のため出家。浄海と号した。
厳島神社を尊んだ。
(参考)鹿児島県出水市に平家落人が信仰した厳島神社がある。
清盛に関する説話
源氏が天下を取ったために、次第に悪人としてのイメージが定着?
「保元物語」:鎮西八郎為朝の固める白河殿の西門を攻めたが、為朝の弓勢に恐れて退却した。
「保元物語」半井本(古態本):朝日に向かって弓を引くことを避けるために迂回した。
「平治物語」:義朝勢が六波羅を攻めてきたので狼狽して兜を逆さまにかぶった。
「平家物語」:悪行者として定着。子息の重盛を、理想的武人として描く。
「十訓抄」:他人の戯れごとにも笑ってやる。
人の過失にもことを荒立てない。
部下を常に心配する。
身分が下の者でも人並みに扱う。
思いやりにあふれた武将で、部下から慕われていた。
「源平盛衰記」:澄憲僧都が祈雨の法による功で大僧正になったとき、
「五月雨の季節になれば雨が降るに決まっている」と喝破し、合理的な考え方を示した。
「平家物語」巻六入道死去:対宋貿易を振興させるために兵庫に新島を築いたときに、
難工事であったため人柱を立てようとしたが、罪業であるとして一切経を書いた石を代わりに埋めた。
「山家集」:熱心な法華経信者。天台仏法の擁護者。
幸若舞曲「築島」、説教浄瑠璃「兵庫築島」:
平家物語と逆に、無差別に人を捉えては人柱にしようとする悪行者として描かれている。
源範頼 ?-1193 (みなもとののりより)
平安末〜鎌倉初期の武将。源義朝の6子。母は遠江(とおとうみ)国池田宿の遊女。
同国蒲御厨(かばのみくりや)で生まれたため蒲冠者(かばのかじゃ)と呼ばれた。
兄頼朝の挙兵に呼応,弟義経とともに西国で平氏追討の任につき,
平氏滅亡後は九州の経営に当たったが,頼朝の嫌疑を受け伊豆修禅寺で殺された。
(「範頼」については、マイペディア97(C)株式会社日立デジタル平凡社に拠る)
以下三名は、水天宮の祭神である。
二位の尼(1126-1185):水天宮の祭神
平時子。清盛の妻。宗盛・知盛・重衡・徳子の母。同母弟に、平時忠。
(注:『尊卑分脈』において『平家物語』作者と記されている葉室時長は時忠の甥にあたる。
時忠が『平家物語』のほとんどの巻に登場することを考えれば、あるいは時忠周辺から資料の提供があったか?
時忠の長子時実は、源義経の参謀。時忠の娘は源義経の正妻。)
久安二年1146頃に、清盛の妻となる。すでに、前妻との間に重盛・基盛がいた。清盛28歳。時子21歳?
承安元年1171、娘徳子(建礼門院)が高倉天皇の中宮となり、従二位に叙せられ、以降二位の尼と呼ばれる。
治承二年1178、徳子が安徳天皇(言仁親王)を出産。
建礼門院1155-1213? 平徳子:水天宮の祭神
没年には諸説ある。『平家物語』は建久二年1191とする。
高倉天皇中宮。治承二年1178、安徳天皇を生む。
壇ノ浦の合戦で安徳天皇の後を追うようにして海に飛び込んだ。
しかし、黒髪を熊手にからめとられて引き上げられた。
帰京後、京都の東山の麓吉田で出家。そのときの布施として、
安徳天皇形見の直衣ノウシを阿証房の上人印西に与えた。
その直衣は幡に縫われて長楽寺に現存するという。
また、長楽寺には、建礼門院を供養する十三重の石塔が立っている。
その後、大原寂光院に隠棲。女院の御陵は、寂光院に隣接してある。
安徳天皇:第八十一代天皇1178-1185。在位1180-1185。水天宮祭神。
母徳子は、懐妊中に清盛の政敵であった藤原成親らの死霊や、俊寛らの生き霊に苦しめられた。
三歳で即位。清盛は、外祖父になり、平家一門の栄華も盛りとなった。
二位の尼に抱かれて入水する段は、幼帝追悼の意をこめ平曲でも最高音域
(三重甲サンジュウノコウ)によって語り収められる。
安徳天皇が実際に壇ノ浦で没したかどうか、不明。
全国に、安徳天皇陵墓と称する塚がある。
その塚には、安徳天皇潜幸(壇ノ浦から生き延びて、その地に隠れていた)説が付随する。
一般的には、安徳天皇の陵墓は、阿弥陀寺(赤間神宮)とされる。
『安徳天皇御事蹟及び源平合戦絵図』
(伝土佐光信、16世紀末? 絵解きに使用された絵図)が現存。
<参考>
安徳天皇潜幸説話として、例えば以下のような伝承がある。(『日本伝説大系』)
・鳥取県岡益の石堂にまつわる口碑。10歳まで生きた。
・徳島県祖谷渓イヤダニ。16歳まで生きた。(祖谷渓の伝説は、後掲)
・熊本県阿蘇郡南郷。17歳。
・熊本県上益城郡小峯村西緑川村に、安徳天皇の御陵と称する大きな桧がある。
近くに鷲峰寺と称する堂宇があり、観音菩薩を安置する。
・同、御鏡体の社。重盛がここに隠れ、寿永四年、安徳天皇を守りこの地に隠れた。
・熊本県宇土市大字立岡村にある。明治19年に発見。
その時には、頂上に桐の御紋章がついた石棺が露出し、棺の中には腐食した刀剣があったという。
谷を隔てて南側に資盛の墓がある。
この地方では、正月二日に「天皇祭」と称して、各戸祭祀の礼を行うという。
・宮崎県東諸県郡ヒガシモロカタグン。
寛政元年、六日町の農夫弥右衛門が溝を掘っていたところ、古い塚を見つけた。
これは、安徳天皇が西海の難を逃れてこの地に逃れ、崩御したところである。
そこを、「院社」インノヤシロ、「院塚」インノツカ、と称する。
この古い塚は、院社から近いのでそれとわかった。(「安徳天皇の墓」P.274)
・鹿児島県三島村硫黄島。66歳まで生きた。
次のような伝承が残っている。(see:copy)
(1)昔、平家の一族が壇ノ浦の戦いに敗れた時に、
平家の残党は硫黄島長浜浦に到着し、黒木の御所を造った。
その地は、長浜家の宅地内にあり、現在も神聖な場所とされている。
村に北には五町ばかり畑の間を行くと、樹木の茂った小山があり、そこには古い墳墓が20以上散在している。
この墳墓は、安徳天皇の御陵と、吉英、業盛、経正、吉盛、狭野内侍、
櫛筺クシゲの内侍の墳墓であると伝えられている。
安徳天皇の御陵は、各墳墓の南側にある。丸くて小さな石を置いて墓標としている。
この墓標より一間ほど隔てたところに、一旦は枯れたがそこから新芽が生じ三つの幹になった木が立っている。
そこが、安徳天皇を葬った場所である。
(2)元暦二年1185の三月十五日の暮れ方に、安徳天皇の一行は壇ノ浦を密かに逃れた。
未明に伊予の国高島に到着。十六日に出立し、十七日に日向の細島に着いた。
三月二十九日に細島を出て、四月五日に鹿児島県志布志に到着。
四月八日に出て、種子島浦田に着岸。
この島の領主は大江澄遐と云う者であり、幾度も兵粮のための米や酒や肴を届けてきたので、
鎧と太刀と金五千両を与えた上で武蔵守に任じた。安徳天皇の一行とは知らなかった澄遐は、
一行をかくまおうとは思ったがこの島には澄遐と日頃肩を並べる者が二名(淡路三郎・沼津藤太)いるので、
その者たちが源氏に内通するかもしないので、天皇の一行をかくまうことができなかった。
現在、下西村には、安徳橋が架かっている。
一行は、四月十五日に種子島を出航し、大隅半島の「内裏浦」に漂着した。
そこを「内裏浦」と称する所以は、昔、景行天皇がこの地に来たからであった。
しかし、資盛・時房・経正が、ここは南がひらけて天皇の座所としてふさわしいけれども、
敵の襲撃には脆いのでさらに逃げ延びる必要があると進言したので、一行は十八日にまた乗船して、
浦々を伝い、大隅の大泊という浦に着岸し、さらに内の浦へと辿り着いた。ここまで来ると、
さすがに落ちのびる船もまばらになり、着いてきた平家武士たちも心細く思っていた。
そこで資盛は菊池二郎行吉を召して、ここから西に行くと煙の立つ島がある。
その硫黄島は、どうやったら行けるのだろうか、と尋ねた。
行吉は、今日こそ出立の日であると答え、逆風の中を安徳天皇のいる船を真ん中にして、
もろもろの船が周りを囲み、櫓を押し立てて安静の地を得るために漕ぐうちに、
ついに元暦二年五月一日に硫黄島長浜の浦に到着した。
三日から総勢二百人を手配し御所を作り出し、そこを黒木の御所と銘々した。
五月五日辰の刻に三種の神器の前に安徳天皇がお立ちになり、共に新しい御所にお入りになった。
その後、安徳天皇は、寛元元年(1243)五月五日の夜に崩御された。
注:「水天宮」の祭は、五月五日。
徳島県祖谷渓(see:copy)
http://www1.sphere.ne.jp/east-iya/03ago/index.htmlの記事を転載。
東祖谷山村
TEL0883-88-2211・FAX0883-88-2166
東祖谷渓に伝わる平家伝説
寿永4年(1185)2月19日、平氏一族は讃岐屋島の戦いで源氏に敗れ、
生き残った武士たちは散りじりに逃げて行った。
祖谷地方に伝わる伝説によれば、平教盛の次男 平国盛は、安徳天皇を奉じ、
手勢百余騎を率いて陸路東に逃れ、水主村(現大内町)にしばらく潜伏した後、
大山(阿讃山脈)を越えて吉野川をさかのぼり、寒峰をよじのぼって山深い祖谷山の地に入った。
剣山の麓、大枝の岩窟にたどりついたのは折しも大晦日の夜。
形ばかりでも門松を立てようと松の木を探したが、付近にはブナやケヤキばかりで、
仕方なく桧の枝を門松にしたてて新年を迎えたという。
翌朝、国盛らは、大枝の名主の屋敷を襲って立てこもり、付近の住民を帰服させながら勢力を伸ばしていった。
国盛は後に住居を阿佐名に移し、承元2年(1208)、祖谷山に入山して20年余の後、この地で息を引き取った。
それから後も国盛の子孫は代々この地に住んで阿佐を姓をするようになるのである。
国盛の直系の子孫であると伝えられる「阿佐家」には、
現在も「平家の赤旗」と呼ばれる大小二流の旗と系図、宝刀が所蔵され、
今でも新年には桧の小枝を神棚に祀るという。
また、平家の武士たちが最初にたどりついた岩窟も「平家の岩窟」と呼ばれて現在も残っている。
大枝にある鉾神社は、国盛が鉾を納めて社を建てたものと伝えられ、
境内に国盛が植えたとされる杉は「国盛杉」と呼ばれ800年余を経て今では県下一の巨木となっている。
一方、安徳天皇は、祖谷山に入った翌年の文治2年(1186)には病気のために崩御され、
栗枝渡で火葬にされて「栗枝渡八幡神社」に祀られた。
社殿の傍らにある「御火葬場」は聖域とされ、周囲二間四方はどんな大雪が降っても雪が降り積もらず、
また、そこへ入ると腹痛がおこるといって村の人は今も近寄らないという。
東祖谷山村には、この他にも平家や安徳天皇にまつわる数々の遺跡や伝説が残されている。
剣山は、かつて石立山と呼ばれており、安徳天皇が平家復興を祈願して剣を奉納されたことで、
「剣山」と改称され、また安徳天皇一行が川を渡る際に栗の木を渡して通った場所の地名も「栗枝渡」と改められた。
この他にも、天皇が装束を掛けられた「装束石」、鉾を立てかけられた「鉾立て石」などさまざまである。
剣山の山頂付近のなだらかな草原は「平家の馬場」と呼ばれ、
平家の武士たちが厳しい生活のかたわら軍馬の調練に励んだと伝えられている。
安住の地を求めて東祖谷山村にたどり着いた彼らも、しばらくは平家復興を夢見て苦闘の日々を送った。
**以上、http://www1.sphere.ne.jp/east-iya/index.html**
伝承の補遺
讃岐の屋島から平国盛は手兵百余騎を率いて安徳天皇を守りつつ、
讃岐の白鳥から阿波の大山を越えて逃れた。一行は、三軍に分かれた。
一軍は、安徳天皇を守護し、一軍は先頭に立ち、一軍は追っ手の敵を防ぐためにしんがりを務めた。
寿永二年吉野川を遡り、寒峠を越え、東祖谷に入り、洞窟の中に落人の身を隠した。
(cf.洞窟に身を隠したという伝承は、高田町平にもあるか?)
祖谷山字大枝の岩屋で正月を迎えたが、松がない。
そこで、桧を代用した。現在も、阿佐家では桧で「門松」を作っている。
大枝へ入ろうとしたが、元旦の祝賀の宴を催していた名主の喜多氏たちは拒んだので戦いになり、
喜多氏は平国盛によって滅ぼされた。国盛は、阿佐に移り住んだ。
国盛は、文治元年六月十八日に、<讃岐屋島に御鉾がある。これは平家の守神である>という夢を見た。
ただちに家来の佐伯日向を使いにやったところ、
御鉾があったのでこれを持ち帰り、聖地を選び鉾大明神として奉祀した。
これが、大枝の鉾大明神である。佐伯日向の弟の清高が神主として奉仕した。
国盛手植えの杉を、国盛杉という。周囲が11mある。
尾山十二社大権現には天神地祇を祀っている。神主は、佐伯日向が勤めた。
国盛には、四人の子供がいた。
氏盛?
盛之:大枝に居住。
忠国:久保に居住。
業辰:僧侶となり、浄雲と名乗った。定福寺を建てて観音を本尊として平家の霊を祀った。
これが、現在の阿佐観音である。
安徳天皇は、麻植郡より石立山へ護衛して引きこもり、しばらくはそこで過ごしていたが、
国盛が祖谷渓を平定したとの報を受け、祖谷渓に入った。
装束石:安徳天皇がこの上に立って装束を替えられたところ。
皇上の手橋:谷を渡るときに、安徳天皇を手から手へと渡した事に由来。
これは、久保の墓層にある。
栗枝渡:寒中に蛙が鳴くのを聞き「朕の住むところは蛙の鳴くところなり」と仰
せられた。供の者たちが川下に降りて栗の枝を切り橋とした事に由来する。(?)
また、平家の残党は山伏に身を変え、世の中の変化を安徳天皇に注進した。
**http://www2.tip.ne.jp/~nakani00/about_1.htmに記載された資料**
さて、海中に没した神じと宝剣探しは、
早速翌25日から長門一円の浦々の海女を召集して始められましたが、
宝剣だけはついに見つかりませんでした。
また、安徳天皇のご遺体に関しても、見つかっていないというのが一般的な説ですが、
発見されたという説もあります。
すなわち、4日目の28日、安徳天皇のご遺体が瀬戸崎浦の漁民の網にかかったというもので、
この説によると、
義経から相談を受けた伊勢義盛が4月1日、豊田郡地吉村(豊田町)にある四神相応の地、
丸尾山の南端に葬り、陵を築きました。
地元ではこれを王居止(おういし)と呼んだそうです。
大正15年10月21日、宮内省から安徳天皇陵墓参考地の指定を受けましたが、
ついで昭和2年11月30日、正式に安徳天皇西市陵墓参考地と命名されました。
入水後、6年たった建久2年(1191)、
後白河法皇は安徳天皇の菩提を弔うため、赤間関(下関市阿弥陀寺町)に阿弥陀寺を建立しました。
これが現在の赤間神宮で、この赤間神宮の隣接地に安徳天皇阿弥陀寺陵があります。
彦島には古くは3000万年前の化石時代から歴史の記録が残されており、
平家の滅んだ源平合戦、吉川英治「宮本武蔵」の舞台、世界最初の海底トンネルの完成、
と歴史の節目ごとに登場しますが、「彦島」の名前が表に出ることはなく、
それは、壇ノ浦であり、巌流島であり、関門として知られていましたが、
実はすべてこの彦島が中心的役割を担っていたのでした
**以上、http://www2.tip.ne.jp/~nakani00/about_1.htm**
赤間神宮http://www.tiki.ne.jp/~akama-jingu/
赤間神宮由来書。安徳天皇や平家一門の墓、耳無し芳一由来の堂、彦島などの画像が掲載。。
**以下、http://www2.tip.ne.jp/~nakani00/umi_012.htmに記載された資料**
<平家蟹>
壇ノ浦の合戦で命辛々逃げ延びた平家の官女達は、彦島や伊崎などに密かに隠れ住んでいた。
やがて源氏の追っ手の者も数少なくなり、梅雨が過ぎ、夏が本格的な暑さとなったある日、
官女の一人がそっと浜辺に出てみると、何百、何千という蟹の大群が砂浜をはい回っていた。
女は驚いて、みんなを呼び集めたが、ぞろぞろと出てきた女達は、
それぞれに蟹を手のひらに乗せてみて、一斉に叫び声をあげた。
「まあ、驚いた。この蟹には人間のような顔があるわ。しかも恨めしそうに涙まで流して・・・」
そのおびただしい蟹の大群は、どれをとっても甲羅には人間の顔がはっきりと浮き出て
目と思われるあたりからはぽろぽろと涙のような滴が落ちていた。
「本当に。どうしたことでしょう。このか煮立ち、みんな泣いているようね。
それにしてもこの怒ったような、悲しいような顔、なんだか怖いみたい」
女達が口々にそんなことを言っていると、手のひらの一匹の蟹が小さな声で、
それでもはっきりと人間の言葉を話し始めた。
「我々は本当は蟹ではない。ついこの間まで、お前達と苦楽を共にしてきた平家の一門だ。
あの日壇ノ浦で安徳天皇のお供をして海へ飛び込んだが、どうにも口惜しゅうてならん。
我々を滅ぼした源氏が憎うて憎うて、このままではとうてい成仏できん。
其れで今は蟹に姿を変えて鎌倉打倒の機会を待っているのだ」
それを聞いた女達は一斉にしくしく泣き出した。
「知らないこととはいいながら、本においたわしいこと。
それに引き替え、私たちは、こうして彦島に隠れ住んでいますが、
毎日をひっそりと生きているだけで、本当に申し訳ないことです。」
「そうです。これから私たちも、源氏を倒すために何かお役に立つことを考えましょうよ」
そのとき一人の女がこういった
「わたしたちは蟹ではなく、魚になりましょう。
そうだ、魚の王様、鯛になりましょう。
そして生きている人々達に食べられることによって、わたしたちの執念を人間に乗り移らせるのです。」
「そう世私たちのようなか弱い女には、源氏を滅ぼす良い方法といえばそれしかありませんね」
女達は瞬く間に同調し、多くの蟹達が心配げに見上げる中を次々に海に入っていった。
彦島と下関の間の小門海峡は、そのころ日本一流れが速かったから、
女達は見る見るうちに流されて沈んでしまったが、それから何ヶ月かたって、
この海峡では今まで全く見られなかった小さな美しい鯛が群をなして泳ぎ始めた。
「これは平家の官女達の化身だ。
おそれ多いがこれをたらふく食べて一日も早く源氏が滅びるように祈ろうじゃないか」
「そうだ、これは平家の、言うなれば小さな平家、
つまり、小平家の怨霊がこもっている。その恨み辛みをわしらがかわってはらしてやろう」
彦島の漁師達はその小鯛を釣り上げて口々にこういったものだという。
(「彦島あれこれ」富田義弘著より)
平家にまつわる動物変身伝説にはこのほかに、
平家蟹(甲羅が平家の武者の怒りの形相をした食用にしない
大きな蟹・下関水族館で生きた状態を見ることができます)
にまつわる「骨董」(小泉八雲)、「美神たちの黄泉」(赤江瀑)などがあります。
**以上http://www2.tip.ne.jp/~nakani00/umi_012.htm**
**以下http://www2.tip.ne.jp/~nakani00/heike/heike01.htm**
<平家塚>
「彦島あれこれ」によると、「清盛塚」は彦島にかつて5つから7つあった「平家塚」のひとつとされており、
築城跡、落人が割腹した場所などに島民が石塔を建てて供養した、と伝えられているようです。
で、この平家塚の供養は、塚の立つ部落で1年ごとに担当の家を決めて
その家の者が必ずひとりで毎月4日に参拝していたそうです。
「彦島あれこれ」に特に記述はありませんが、毎月4日というのは平清盛の月命日です。
現存する平家塚は老の山山頂から卯月峠へ藪の中を少し下ったところ、
福浦の安舎山(どこ?)の麓、角倉の段地堤から山中へ抜ける山見との途中
(すでに埋め立てられている)3カ所(実質2カ所)のようです(いずれも未確認)。
**以上http://www2.tip.ne.jp/~nakani00/heike/heike01.htm**
**以下http://www2.tip.ne.jp/~nakani00/bourei.htmに記載された資料**
<平家の亡霊>
平家供養の七盛塚
赤間神宮の明るいきらびやかな拝殿をあとに、
左手の宝物館をくぐり抜けるとそこには陽の光も届かぬ黄泉の国を思わせるような、
幽すいな世界が静かに息づいており、訪れる人に深い感銘を与える。
ここにたたずんでいる墓碑は、七盛塚と呼ばれ次のような伝説が残っている。
天明年間(1781-1789)のこと、海峡に嵐が続き、九州へ渡る船や漁船の遭難が続出したので、
海上交通を断たれた商人や壇ノ浦の漁師たちは、生計がたたず大変困っていた。
そんなある夜、漁師たちは荒れ狂う暗い海に、泣き叫ぶ男女の声を聞いたので闇をすかしてみると、
そこには成仏できずに海上をさまよっているたくさんの平家武者と官女の亡霊の姿があった。
漁師たちはこの災難は平家一族の怨念によるたたりであろうと考え、
其れまで供養する人もなく荒れるにまかせていた平家の墓を一カ所に集め、
京都の方に向けて手厚く供養したところ翌日からは嵐はうそのようにおさまったという。
この七盛塚は前列右から有盛(ありもり)、清経(きよつね)、
資盛(すけもり)、教経(のりつね)、経盛(つねもり)、
知盛(とももり)、教盛(のりもり)。
後列は徳門、忠光、景継、景俊、盛継、忠房、二位となっており、
盛りの付くのは六基しかないが、
俗に七盛塚と言われ墓碑ではなく平家一門の供養塔と考えられている。
また七盛塚の後ろには、たくさんの小さな五輪塔が肩を寄せ合うように埋もれているが、
紅石山の土が雨に洗われるたびに、少しずつ姿を現すと言われ、
平家痛恨の執念を見るような雰囲気である。
小泉八雲の「耳無し芳一」が平家武者の怨霊にとりつかれて、
真夜中にこの一門の前で琵琶を弾じたことを想像すると、
今にもチラチラと鬼火が浮かんでくるような怪しい心地がして、
平家滅亡の哀れさがしみじみと胸にせまってくる。
(サンデー下関 1997年11月7日号より引用)
上記のサンデー下関から引用した資料の中には盛の付く名前の供養塔が6基しかないとか書かれていますが、
7基めは平家の時代を築き上げた清盛入道の供養塔で彦島杉田にあり、
これを含めて七盛塚と呼ぶのではないかと思われますが、なぜ清盛塚だけが彦島にあるのかは謎です。
平家の亡霊について
壇ノ浦の合戦では多くの平家の武士達が命を落とし、波間に沈んでいった。
そのため、ここ関門海峡には平家の怨念の込められた平家蟹が生息しており、
その姿はまさに恨みつらみのつのった平家武者の姿そのものである。
また、彦島の身投げ岩より夫のあとを追って海峡(小戸)に身を投げた平家の女官達は姫鯛に姿を変え、
その怨念を20世紀の今までも伝え続けている。
96年8月、漫画週刊誌「少年ジャンプ」に連載中の「地獄先生ぬ〜べ〜」に、
この平家の亡霊が取り上げられた(漫画中では「妖怪」としてあつかわれていたが)。
地元の壇ノ浦の漁師達が海峡で漁をしていると、
曇った日や夕暮れ時には必ず平家の亡霊が海中から手を伸ばし、
船縁にしがみついてきた。
亡霊達は「ひしゃくをくれぇ、ひしゃくをかせぇ」と哀れな声でひしゃくを要求した。
漁師がその声に恐れおののいて、思わず柄杓を渡してしまうと、
亡霊はそのひしゃくで海の水を船の中にそそぎ込み、船を沈めて漁師を殺してしまうのだった。
そのため、漁師達は漁に出るときには必ず底を抜いたひしゃくを持って出かけ、
亡霊にひしゃくを求められたならば、その底のないひしゃくを渡し、生き延びたと言われている。
また、「耳なし芳一」も小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)によって著書「怪談」の中で世界に紹介され、
平家の亡霊の話として有名です。
小泉八雲は1850年にイギリスで生まれました(1904年没)。
明治23年に来日、帰化した小説家・英文学者です。
教鞭を執る傍ら日本研究を進め、日本への深い愛情を示す随筆・研究・創作を名文で書き続け、
「知られぬ日本の面影」「心」「怪談」などによって日本を広く世界に紹介しました。
「耳なし芳一のはなし」は「怪談」の最初にのっており、
下関を舞台とした琵琶法師・芳一と滅亡した平家の怨霊の話です。
安徳幼帝と共に平家は滅び、その後700年の間、壇ノ浦の海と一帯の海岸とは怨霊にたたられていたと記しています。
挿し絵は六曲一双屏風の一部です。
ラフカディオ・ハーン「耳なし芳一の話」において、
ハーンが用いた原典であるところの江戸時代の怪談集『臥遊奇談』から
「琵琶の秘曲、幽霊を泣かしむ」の本文をgifファイルで提供している岐阜大学、根岸さんのページ
http://www.gifu-u.ac.jp/~kameoka/houichi.html
**以上http://www2.tip.ne.jp/~nakani00/bourei.htm**
**以下http://www2.tip.ne.jp/~nakani00/special_3/spe3_5.htmに記載された資料**
「椎葉山由来記」概要
およそ800年前、壇ノ浦の合戦に敗れた平家の武士たち。
追っ手を逃れて各地のふところ深い山奥へ。
古文書「椎葉山由来記」はこんなふうに伝えています。要約すると・・・
「道なき道を逃げ、平家の残党がようやくたどり着いたのが山深き椎葉だった。
しかし、この隠れ里も源氏の総大将頼朝に知れ、那須与一宗高が追討に向かうよう命令される。
が、病気のため替わって弟の那須大八郎宗久が追討の命を。
こうして椎葉に向かった大八郎、険しい道を越え、やっとの事で隠れ住んでいた落人を発見。
だが、かつての栄華もよそに、ひっそりと農耕をやりながら暮らす平家一門の姿を見て、
哀れに思い追討を断念、幕府には討伐を果たした旨を報告した」
ふつうならここで鎌倉に戻るところです、大八郎は屋敷を構え、この地にとどまったのです。
そればかりか、平家の守り神である厳島神社を建てたり、農耕の法を教えるなど彼らを助け、
協力しあいながら暮らしたといます。やがて平清盛の末裔である鶴富姫との出会いが待っていました。
庭の山椒の木鳴る鈴懸けて
鈴の鳴るときゃ出ておじゃれ
鈴の鳴るときゃ何というて出ましょ
駒に水くりょというて出ましょ いつしか姫と大八郎にはロマンスが芽生えました。
「ひえつき節」にもあるように、姫の屋敷の山椒の木に鈴をかけ、その音を合図に逢瀬を重ねるような・・・。
大八郎は永住の決心を固め、村中から祝福されます。
ところが、やがて幕府から即刻兵をまとめて帰れという命令が届き、夢ははかなく・・・。
和様平家の公達流れ
おどま追討の那須の末よ
那須の大八鶴富おいて
椎葉たつときゃ目に涙よ
このとき鶴富姫はすでに身ごもっていました。しかし仇敵平家の姫を連れていくわけにもいかず、
別れの印に名刀「天国丸」を与え、「生まれた子が男なら我が故郷下野の国へ。
女ならこの地で育てよ」と言い残し、後髪をひかれる思いで椎葉を後にするのです。
生まれたのはかわいい女の子。姫は大八郎の面影を抱きながらいつくしみ育てました。
後に婿を迎え、那須下野守と愛する人の名前を名乗らせたそうです。
それにしても、なぜ大八郎は平家の落人を発見したとき、すぐさま討伐しなかったのでしょう。
それほど哀れな姿に映ったのでしょうか。それだけなら、とどまることなく黙って引き返してもよかったはず。
椎葉に魅せられた作家のひとり、吉川英治氏が「新・平家物語」の中で、
椎葉をこの世の理想郷として描いているのが、ひとつの答えかもしれない、敵も味方もない。
富も権力も意味を持たない、戦い、憎しみあってきた源氏と平家の間に美しい恋さえ芽生える。
人間はなぜ争うのか、という問いかけを、椎葉での鶴富姫と那須大八郎の物語に託しています。
いってみれは、戦うのがナンセンスなくらい自然が雄大で、近くに敵がいるのに住んでみたいと思わせるほど
温かく迎えてくれる条件が揃っていたということでしょう。大八郎は<椎葉ファン>の第一号かもしれませんね。
「椎葉山由来記」
日州椎葉山わ奈須山共申(もうす)。其謂わ元暦の昔平家の軍勢長門の国於いての趣、
安徳天皇お始め奉り二位女院並に一門の諸将入水共もなされ不残亡失いたされし由、
諸々の家にて記録等にも有之候処、入水の内存命の面々申謀り時節を待ち、
命全ふし何卒安泰の地を求め山深く忍隠れ天運の至る時を待つに、
若(し)くわなしと豊後国玖珠の山に分け入り留る。
今に至り平家山と云い伝ふ、去れ共山浅く鎌倉に知れあらわれむ事を怖れ、
肥後国阿蘇路を経て当国に迷ひ来て此山中に暫時を過す処、
頼朝公聞召に及給ひ奈須与市宗高は八嶋の戦場に弓勢をあらわし、平家方の軍兵恐れをなすと聞伝ふ。
此際平家残党一人たり共生けて置間敷くと宗高に西国出陣を命ずるに、
宗高私儀八嶋の戦場にて疾風に当られ、其時よりしていかなる痛に哉。
当時矢先覚束なく奉存候。然るに私弟大八郎宗久と申者当年廿二才の的(まと)の稽古仕候に、
壱本もあだ矢無殊に私より大兵に生れ力飽く迄強く強弓好に候へば、此度九州に御差し遊被候ても、
慥と奉存候。当時迄何の役も相勤の儀も無是候へば如何有是候哉と言上致するに、
頼朝公聞召され是際大軍を催するに不及。先する時は一人たり共征する事無、
片時も早く出陣致し、目出度帰陣の時は鎌倉に申出可旨被仰。
即ち与市宗高領地に帰国致し舎弟大八郎宗久に主君頼朝公の御諚を伝ふ、
大八郎大に悦び兄宗高次男宗昌等手勢引具し、海陸を経て九州江下り、平家の残党を尋ね、
肥後国阿蘇より日向の境迄来たりし時山嶮しく馬の通るよすがなく、
詮方無く此処より馬を乗捨登山する。即ち大八郎鞍を置去り故、
誰れ云ふとなく鞍置村と呼びなせしを何時とはなく今は鞍岡村と呼びにける、
時恰も元久弐年宗久等山又山を攀ぢ上り向山と云ゑる処に詰よせ討亡す。
落延る平家日肥之境五ケ荘と云ゑる五谷に逃れ深く忍び民家に落下り、
椎樫の実を拾鳥獣を討て食事となし、山畑を開き耕作を業となし渡世を営み候へ共、
馬の通ひは不及申、或は木の根をたより藤の橋を拵へなどして漸く五ケ谷の往来の通路有之。
至極険城の隠れにて数十年知る者なかりしに折々塩を求めに町場に出、怪しき人柄諸人のふしんなし、
御公儀様へ洩れ聞ゑ今五六十年以前御吟味仰付、
五ケ荘の惣地頭権之丞祖父平家重代の唐波と云ゑる鎧差上候由承り伝ゑ候、
今此山椎葉山と申て奈須大八郎宗久暫時の陣小屋、椎の葉を以て風を防ぎ、
誠に椎葉山なりける由、夫れ以前は山の名やなけん、大八郎宗久住居跡有之。
在所は今に至り上椎葉下椎葉と申候。又奈須山と呼なしたると伝へ、
然るに大八郎入山以来三年の星霜を経て、此間平家の残党諸々に散在成と雖も、
再挙の見込無耕作を業とし、斯かる故に敵として討つに不忍。
又大八郎宗久敬神の念深く平家残党の為め上椎葉に特に平氏の崇敬する厳島神社を勧請し、
滞陣中見廻り中に風景に富む戸根川の小丘陵に目を止め、我が国最古の諸神を祭り、
其傍に大八郎宗久当地に下向の砌り(みぎり)、途中京都清水寺に参詣の節、
観音菩薩の御守りを買(負)仏として崇拝せしを安置し、此祭神今に至る迄も戸根川神社に祝ひ祭る。
又此社の傍に我が国希に見る大杉有り。是れ大八郎宗久の手植の杉と云ひ伝ゑ来り、
此処の大栃の木は神の御手植とて鬱蒼として林をなし、戸根川神社の顕著なる神徳と云ひ、
また巍然(ぎぜん)として立つ大杉大栃を見ても神々しき事思ひはかれり、
さすが源氏の重臣大八郎宗久平氏残党の為め上椎葉に厳島神社を勧請し、
又当地に来り彼等の武運長久を祈る為めに戸根川には諸神を祭る英勇之心事之程や思ひ知られたり、
大八郎此滞陣中も早平家の残党愈々再起の見込無きに極り、
鎌倉殿の御意を受け帰国の節、召使の侍女鶴富と云ゑるなん大八郎の寵を受け其節懐胎せり、
大八郎言ゑるに軈て(やがて)安産なし男子出生に於ては我が本国下野の国へ連れ越す可(べし)、
女子なる時は其身に遣す。何れにせよ親子の証拠にとて天国の太刀に系図を写差添ゑ、
彼侍女鶴富に渡し帰国致被候処、至極安産取上見れば女子出生、
此侍女奈須家の血脈を大切に思ひ娘に聟(むこ)を貰ひ養育し、奈須何某と名乗り、
子孫相続して耕地を業とし不足の年は葛蕨の根を食事となし、已(すでに)拾余代を経、
奈須玄蕃と申者の代となり、男子四人持ち摘子左近二男弾正三男将監四男九郎右衛門、
城に随ひ系図の面を柔懐し、何卒先祖の家業を再起せんとの密談、
余(世)の人口を恐れ山にて談合の上夫々臍を堅めける、此処今に至り断の尾立と申候。
[略年譜]
治承4年1180 安徳天皇即位(3歳)
この年から、平家に対する反乱が活発になる。
源頼政は以仁王モチヒトオウ(高倉上皇の兄)の奉じて挙兵。
源頼政は、宇治の平等院で自害。以仁王も殺害された。
東国
伊豆:源頼朝挙兵
木曽:源義仲挙兵
西国
肥後:治承4年9月(1180)肥後権守菊池隆直
12月菊池軍に加わる者が多いと京都に報告があった。
阿蘇惟泰・木原盛実モリザネが隆直に従う。
(領地確保のため? 「一所懸命」)
豊後:緒方惟能コレヨシ
治承5年2月 菊池軍は、大宰府を攻める。
治承5年4月 前の筑後守平貞能サダヨシが、肥後守に任ぜられ3000騎を率いて九州へ向かう。
菊池軍は、本拠の菊池に立てこもり抗戦。
平貞能は、菊池勢を兵糧責めにして勝利を得る(10万石!)。
寿永2年7月1183 平貞能は、菊池隆直・原田種直らを連れて上洛。
しかし、10日後には、木曽義仲の軍勢に追われて筑前大宰府へ都落ち。
8月17日 総大将平宗盛に率いられた一行が大宰府に到着。
『源平盛衰記』は、高直が御所を造って迎えたとする。
菊池隆(高)直・原田種直・山鹿秀遠らが警護。
菊池隆(高)直は、都から平家のお供をして付き従ってきたが
<「大津山の関開けて参らせん」とて、肥後の国に打ち越え、
おのれが城に引きこもって召せども召せども参らず。>
(see:『平家物語』巻八「名虎」)
菊池隆(高)直は、関白道隆の末裔。
後白河法皇は、安徳天皇の弟四の宮を天皇として立てる(後鳥羽天皇)。
後白河法皇は、豊後の緒方惟能(『平家物語』は、「維義」)に平家を討つように命令。
緒方維義が三万余騎の軍勢で攻め立てたため、建礼門院をはじめ女官たちは袴のももだちをつまみあげ、
宗盛以下の公卿や殿上人たちも指貫サシヌキのももだちを袴の紐にはさみ、
水城ミズキの関から出て、裸足のまま箱崎の津へと落ちていった。
付き従うのは、原田種直の二千余騎。
山鹿秀遠が数千騎で出迎えたが、原田とは仲違いをしていたので、原田は途中から引き返した。
遠賀川山鹿氏の城に入ったが、山鹿へも敵が来るというので、
たくさんの小舟に乗り夜通しかかって豊前国柳が浦(北九州市門司区の西南部。
関門海峡を挟んで彦島の対岸の地。現在、御所跡を伝えている。)
に逃げ込んだ。そこに御所を造るという案も浮上したが、源氏が攻めて来るという噂が立ち、
漁師の小舟に乗りさらに逃げ落ちた。
小松殿(平重盛)の三男平清経は、「都を源氏に攻め落とされ、九州を維義に追い出される。
まるで、網にかかった魚のようだ。これからどこへ行ったら逃げ切れるのか?
もう、これで終わりだ」と月の夜に心を澄まして横笛を吹きしみじみとした口調で歌を口ずさんでから、
静かに経を読み念仏を唱えて海に沈んでいった。
長門国は知盛の国であった(?)ため、国守が大きな船を百艘準備してくれた。
平家はこの船に乗り四国の地へと逃げていった。その先は、讃岐の国八島である。
(『平家物語』巻八「緒環ヲダマキ」「大宰府落」)
寿永3年正月 木曽義仲が、範頼と義経によって討たれる。
2月一ノ谷の合戦 平家は屋島へ逃げる。
寿永4年2月1185 讃岐の八島(屋島)に陣を張った平家軍は、義経軍に破られため長門へ。
九州へ入ることができず、壇ノ浦の合戦(赤間・門司)となる。
3月24日夜明け 平家500艘 義経700艘。
清盛の妻二位尼は8歳の安徳天皇を抱いて海の中に身を投じた。
補説
次の時期に平家落人が生じた可能性がある。
・大宰府から逃げ延びるとき。
・箱崎の津から逃げ落ちるとき。
・山鹿(遠賀川)から小舟に乗って逃げるとき。
・柳が浦から船に乗って逃げるとき。
・讃岐の屋島から、四国に逃げた。
・壇ノ浦の合戦後に、九州北回りと、南回りのコースを辿り、それぞれ落人部落を形成した。
[柳川の平家伝説と北原白秋]
北原白秋『思ひ出』「わが生ひたち」3に「六騎」が記載されている。
「六騎」は、日本で最も有名な平家落人の里!
「六騎」は、詩人北原白秋を生んだ地。
・六騎由来
・水天宮由来(久留米・柳川・海津・渡瀬)
・六騎の詩人北原白秋--「思ひ出」における無常観--
六騎神社
矢留大神宮境内にあり、昔は船下りの終点であった。
明治30.10に神社が建てられた。
「六騎」とは?
壇ノ浦で敗退した平家一族
難波善長(平益信)
加藤藤内(平正勝)
是永多七(平政直)
浦川天ケ左衛門(平高矩)
鳴神藤助(平親英)
若宮兵七(平清貞)
「矢留」とは、海賊の「矢を留める」という防塁の意味?
矢留は、沖の端川河口に位置するが、筑後川河口を押さえることができる海上交通の要衝地。
海外貿易の裏街道?
「六騎」に住みついた平家一族は、松浦党との関係もあって、
有明海の水上交通を制することができた?
<参考>
「六騎神社」本社総代北原長太郎
(注:北原白秋の父。明治45年家郷を捨てた長太郎は、
昭和20年に死去するまでついに一度も柳川に帰らなかった)
北原家
藩政時代から立花家の御用達:屋号(油屋・古問フツドイ屋)
南筑後一円に魚を卸す海産物問屋
酒の醸造・精米を兼業
専念寺境内(真勝寺から移された)に北原家代々の墓がある。
柳川市沖端石場イシバ55-1に住むようになったのは、二代北原治右衛門(天保2没)から。
白秋の父長太郎の父北原嘉左衛門(文政6-明治14)から、本格的に酒造業を始める。
明治18年:熊本県南関町外目の石井業隆ナリタカ邸にて白秋誕生
(昭和17年没57歳)。
従兄弟の石井了介は、画家であるとともに昭和42年から2期南関町長。
明治22年:柳川瀬高地区矢留村北原長太郎造石高637石960合で第一位。
明治28年:全国酒造家番付1596石 福岡県第10位
明治34年3月30日:沖の端の大火。酒蔵焼亡。
5月:妹ちかが、チブスで急逝。
明治37年早稲田大学英文科入学
父長太郎が反対したため、母しけと弟鉄雄の協力を得て実行。
一番番頭末吉の家と土地を抵当に200円を銀行から借り入れ、会議で外出し
た長太郎の留守をねらって、布団包を二階からおろし、鹿児島本線矢部川駅
から東京へ発った。
明治40年「五足の靴」
明治42年3月『邪宗門』
年末に、実家破産(24歳)。
明治43年 この頃から、実家の破産が白秋に重くのしかかってくる。
明治44年6月『思ひ出』(白秋26歳)
「わが生ひたち」について、芥川龍之介は新感覚派の先駆と評価。
上田敏は、「日本古来の歌謡の伝統と新様の仏蘭西芸術に亘る総合詩集」
(「増訂新版について」)と評している。
『思ひ出』におけるローマンティズムの基層には、極端な言い方をするならば西行以来
培われてきたきわめて伝統的な放浪詩人の心象風景が展開しており、後年になって傾
倒する『梁塵秘抄』や『閑吟集』への道標ともなっている。
明治45(大正元年)27歳 木下俊子と苦恋。
訴えられ、市ヶ谷未決監二週間拘留。8月無罪免訴。
冬に父上京。一家は、故郷を捨てる。
[参考]
『思ひ出』「わが生ひたち」における無常観--平家落人の地「六騎」と関連して--
白秋が、平家落人の地で育ったことについて、未だ議論はされていない?
白秋は、菅原道真の末裔?
・我は菅家の裔スエと宣ノらしたる大伯母ましき敢て読みにけり(『夢殿』)
『思ひ出』抜粋
時は逝く、何時しらず柔かに影してぞゆく、
時は逝く、赤き蒸気の船腹の過ぎゆくごとく。
第一章「時は過ぎた」
第二章「私の郷里柳河は水郷である。さうして静かな廃市の一つである。
****水郷柳河はさながら水に浮いた灰色の柩である。」
第二章末辞「いまもなほ黒いダアリヤのかげから、
かくれ遊びの三味線は昼もきこえて水はむかしのやうに流れてゆく。」
第三章「柳河を南に焼く半里ほど隔てて六騎の街沖ノ端がある。
(六騎とはこの街に住む漁夫の渾名であって、昔平家没落の砌に打ち洩らされの六騎が
ここへ落ちて来て初めて漁スナドりに従事したといふ、
而してその子孫が世々その業を継襲し、繁殖して今日の部落を為すに至ったのである。)
第四章「私の第二の故郷は肥後の南関であった。」
第一〇章「私が十六の時、沖ノ端に大火があつた。
さうしてなつかしい多くの酒倉も、あらゆる桶に新しい金色の日本酒を満たしたまま
真蒼マッサオに炎上した。白い家鴨アヒルのゐた瀦水タマリミヅ、
周囲の清らかな掘割、泉水、すべてが酒となつて、
なほ寒い早春の日光に泡立つては消防の刺子サシコ姿の朱殊に反射した。
無数の小さい河魚は酔つぱらつて浮き上り、
酒の流れに口をつけて飲んだ人は泥酔して僅に焼け残つた母家に転がり込み、
金箔の古ぼけた大きな仏壇の扉を剥がしたり歌つたり踊つたりした。
私は恰度そのとき、魚市場に上荷アげてあつた蓋もない黒砂糖の桶に腰をかけて、
運び出された家財のなかにただひとつ泥にまみれ表紙もちぎれて風の吹くままに
ヒラヒラと顫へてゐた紫色の若菜集をしみじみと目に戻を留めて何時までも
何時までも凝視めてゐたことをよく覚えてゐる。
*****
六騎の活気ある一団は六十余波の小舟に鮟鱇アンコウ組の旗じるしを翻へしながら
遠洋漁業の途にのぼるかして、わかい子弟の東京へゆくものさへ、
誰一人この因循な故郷に帰らうとほせぬ。
かやうにして街に残されたものは真菰臭い瀦水タマリミヅに釣を好む楽隠居か、
ただ金庫の前に居眠りをして一生を過ごすあの蒼白い素封家のJohn-John
(良家の息子、やや馬鹿にしていふ言葉である。)かで、
追ひ追ひに旧家は廃れ、地方の山も持、田地持の頼も何時しかに流浪の身となつたものが多い。
母の家も祖父の没後よく世にある例ナラヒの武士の商法とかで、山林に手を出し、
地方唯一の名望家として政治屋にまた盛に担ぎ上げられたが為めに瞬く問に財産を傾け尽くして、
今はあの白い天守の屋根の草が秋毎に赤い実をつくる外にほ、
広い屋敷は見るかげもなく荒れはてて了つた。加之、火災後の長い心労と疲憊ヒハイの末、
柳河の「油畳」として、九州の古間星として数代知られた旧家も遂には一家没落の憂き目を見るやうになつた。
私がこの「思ひ出」の編纂に着手し初めたのは、ちやうど郷家の旧い財宝はあの花火の揚る、
堀端のなつかしい柳のかげで無惨にも白日競売の辱しめを受けたといふ母上の身も世もあられないやうな
悲しい手紙に接した時であつた。而して新らしい創作に従つてゐる問に秋となり冬が来て、
今はまた晩春の悩ましい気分に水祭の嘩子ハヤシや蚕豆ソラマメの
青くさい香ひのそことなく忍ばるるころとなつた。
国よりの通知には愈イヨイヨ酒倉は解かれ、親子兄弟凡てあの根ざしの深い「思出の家」から
思ひきつて立ち退くべき時機が迫つたといふ事であつた。
而して馴れぬ水仕事に可憐な妹の指が次第に大きく醜くなつてゆきますといふ事であつた。
かうしてこの小さな抒情小曲集も今ほただ家を失つたわが肉親にたつた一つの贈物としたい為めに、
表紙にも思出の深い骨牌の女王を用ゐ、
絵にほ全く無経験な癖に首の赤い螢や生胆取やJohnやGonshanの漫画まで挿んで見た、
而して心ゆくまで自分の思を懐かしみたいと思つて、
拙いながら自分の意匠通りに装装幀して、
漸くこの五月に上梓する事となつた。
なほこの集に挿んだ司馬江漢の銅版画は第一回の競売の際古道具星の手に依て
一旦塵埃溜ゴミタメに投げ棄てられたのをそつと私の拾つて釆たものであつて、
着色の珍らしい、
印象の強い異国趣味のものだつたのが写真の不鮮明な為めに
全く原画の風韻を失つて了つたのはこの上もなく残念に思はれる。
畢竟私はこの「思ひ出」に依て、故郷と幼年時代の自分とに潔く訣別しようと思ふ。
補説
ちなみに、平家落人の里として五家荘や人吉が名高いが、以下の土地も平家ゆかりの地である。
宇土市には、安徳天皇の墓がある。鹿児島県出水市の浜辺には平家末裔の集落がある。
また、同市の山の中には厳島神社が祀られている。
この神社は近年建て替えられたが、旧跡が川辺に残っている。
阿久根市には、「落」オトシの部落があり落神社が存する。
球磨川の支流平谷川には、
平家の姫君が逃れるときに足手まといになる赤子を沈めたという嬰児アカゴ渕がある。
これら、平家のまつわる場所は、すべて海から行程一日(約五里)にあるという点で一致している。